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群馬県太田市(旧新田町、旧尾島町、旧藪塚本町をふくんで)さらにその近郊を太平記の里として過去、現在、未来を紹介していきます。


2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。


太田、新田、尾島、大泉、邑楽などには太平記に登場する人物やゆかりの史跡、建物が数多くあります。これらを随時、紹介していきます。

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 近代、現代の太平記の里   <=  NEW:「中島知久平邸」を紹介します。中島飛行機の創業者で中島知久平が両親の為に作った大邸宅です。中島飛行機は現在のスバルの富士重工業のもとになっています。

<=  NEW:「新田「大中黒軍旗」掲揚」」を紹介します。太田駅北口にある新田義貞公銅像のそばに「大中黒」ののぼり旗が立てられました。新田義貞が生品神社にて挙兵した当時の旗を基に少し小さくして制作した旗です。前回はのぼり旗がなかったのですがのぼり旗のあるイメージに変えました。







人物編(その1)

 新田義貞

新田義貞は成安3年(1301年)に生まれました。幕府の横暴に対し、元弘3年(1333年)5月8日早朝、生品明神(いくしなみょうじん)に集まった150騎とともに笠懸野へ討ってでました。めざすは鎌倉です。小手指原、分倍河原と戦を進め5月22日には鎌倉に攻め入り鎌倉幕府を倒しました。やがて京都に上がり新しい建武政権において重責をにないますが、足利尊氏との間で戦いが起こります。伊豆の国、京、兵庫と各地で戦いました。やがて、北陸、越前に移った戦いにおいて藤島、灯明寺畷の合戦でおしくも戦死しました。
延元3年(1338年)7月2日のことです。

太田市の太田駅前にある新田義貞の銅像です。

鎧を身につけた姿です。右手には太刀を持っている凛々しい立ち姿です。ここには見えませんが一人の武者を従えています。

JAVAのページで武者を従えた新田義貞を見ることができます。


尾島町世良田にある新田義貞像から、別の銅像に変えてみました。








 脇屋義助(わきやよしすけ)

新田義貞の弟です。太田の西部、脇屋の地を領したところから脇屋義助と呼ばれています。
兄の義貞とともに鎌倉、京都、と戦いました。 藤島、灯明寺畷の合戦で戦死した義貞の後をついで戦い足羽城を落としましたが足利軍に追われ奈良の吉野に入りました。
四国の南朝を振るわんとして興国3年(1342年)四国の伊予国分城(現在の今治)に渡りましたが、ここで病死しました。興国3年(1342年)5月11日のことです。児島高徳が義助の法号「正法寺殿渓山宗栄大居士」と遺髪を持って新田荘脇屋郷の聖宝寺にとどけました。これにより聖宝寺は以後、脇屋山正法寺と呼ばれるようになりました。

太田市脇屋にある正法寺に脇屋義助の石像が作られましたのでここに紹介します。

当時は現在の場所より東側100mほどのところにあったといわれています。

この石像の近くに四国で亡くなった義助の遺髪を持ち帰り納めた遺髪塚があります。

これまでここにイメージとして紹介した脇屋義助館跡は別に紹介します。









 新田義興

新田義貞の第二子です。南北朝の時代において足利方に対抗して戦いました。
正平13年(1358年)、足利方の畠山、竹沢等により計られ鎌倉へ向かう途中、多摩川矢口の渡しで壮烈なる最後を遂げました。
義興は矢口に葬られたと伝えられていますが故郷の新田に葬られたともいわれています。

太田市由良の威光寺にある義興と母のうてな姫の墓です。

江戸時代に平賀源内がこの事を題材にして、歌舞伎の「心霊矢口渡」を表しました。現在でもしばしば上演されています。



















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(2017年 3月 6日更新:更新記録

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