Here Comes A Heartbreaker! Need to Know Wild One, Forever Swingin' Dreamville You Got Lucky
side project Traveling Wilburys History - part 1 text by TOSHI
TW - top History - 2 Discography Videography
disc Album
Single
Compilation
video Video / DVD
Promo-Clip
Compilation/Others
song Original Song
Unreleased Song
Outside-Song
Cover Song
history TP&HB
Mudcrutch
Traveling Wilburys
bio-
graphy
Tom Petty
Mike Campbell
Benmont Tench
Ron Blair
Scott Thurston
Steve Ferrone
Howie Epstein
Stan Lynch
appear-
ance
T V
Movie
Magazine / Book
Award
inside Collaboration
Interview
Who's who
outside Collaboration
Session
  Mudcrutch 
Traveling Wilburys
MC / Dirty Knobs
BT / W.P.A.
 
 Need to Know
 - News & Information -
 Wild One, Forever
 - All about TP&HB -
 Swingin'
 - Live Performance -
 Dreamville
 - Collection & Story -
 You Got Lucky
 - HCAHB! Site Information -
 
The Traveling Wilburys

1988年 4月初旬 …
George Harrison と Jeff Lynneは、L.A.のレストランで夕食を共にしていました。2人の話題は、『When We Was Fab』に続くヨーロッパ向けの12インチシングル、『This Is Love』のB面に収録するための曲をどうするかという事にありました。当時、JeffはTPとRoy Orbisonのプロデュースを手懸けていて、Georgeのために時間を割くという事ができにくい状況が続いていたのです(この時の会食にはRoyも同席していました)。Georgeが所属する Warner Bros.への提出期限も迫っていたので、すぐにでも新曲を録音しなければならなかったのですが、急なために録音場所がありません。色々とアイデアを出し合っているうちにJeffが、「Bobの家はどう?あそこのガレージに小さなスタジオがある」と何気なく口にしたそうです。B面収録曲なので、正式なスタジオでの録音より気楽にやりたいという思いがGeorgeにはあったようで、このアイデアに喜んで飛びつきました。レストランからBob Dylanに電話をすると、「ガレージの隅に転がっている小さな器材(Ampex)が使える」という返事をくれたので、翌日レコーディングをする事に決めました。

その後、2人はTPに預けたギターを取りにいきますが、そこでTPをレコーディングに誘います。彼は「よかった、明日は何をしようかと考えていたところだ」と喜んで参加を申し出ました。Royも「明日、何か起こりそうになったら電話してくれ。私もぜひ行きたい」と、GeorgeとJeffに話していたそうです。こうして何気ないきっかけからメンバーが決まっていったのです。
翌日の昼近く、マリブーにあるDylan邸に集合したメンバーは、前日Georgeがアコースティックギターで考えた短いアイデア(というかリフ)を元に構成を練り上げていきました。場所は裏庭の芝生の上。結局、夕暮れまでにメロディーを完成させ、リズム・ギターだけのベーシックトラックを仕上げました。その後、歌詞作りに入ったGeorgeは、紙と鉛筆を持って「助けてくれ!誰か歌詞を考えてくれよ!」と言いながら、Dylanに向かって「ねえBob、有名な作詞家先生、ボクらのために詩を書いてよ」と持ちかけました。そう言われたDylanは気分転換を兼ねて手を貸すことにしました。「それはどういう歌なんだ?タイトルは何なんだ?」とDylanに尋ねられたGeorgeがガレージのなかを見回すと、ドアの後ろに大きな段ボール箱があり、そこには「こわれもの、取扱注意 (Handle With Care)」という文字が書かれていました。Georgeは反射的に、「"Handle With Care" という歌だ」とDylanに告げると、「うん、いい。気にいったよ」とDylanは頷き、歌詞を考え始めたそうです。「タイトルが決まれば、あとは順調に進んだ。ぼくたちはそのメロディに29番までの歌詞をつけた。こうして "Handle With Care"が録音された」とGeorgeは語っています。


セッションの翌日、完成したばかりの"Handle With Care"を聴かせたWarner Bros.のスタッフから「B面に収録するのではもったいないのでは?」という意見が出されました。その意向を受け、GeorgeとJeffがビールを飲みながら、あれこれと話しているうちに「それならば、あと9曲作ってアルバムにしてしまおう」ということにまとまりました。そのアイデアを抱えTPの家に行くと、彼は快諾。そこからDylanの家に電話すると、無愛想ながらも承諾の返事をしたそうです。残りはRoyだけです。この晩、彼はアナハイムでコンサートに出演する予定でした。一刻も早くこの知らせを伝えたいGeorge、Jeff、TPの3人は各々の車に夫人(Olivia、Sandi&Jane)を乗せ会場まで出掛けていきました。事の顛末を 聞いたRoyも大喜びして賛成したそうです。

シングルと違い、アルバムのレコーディングにはまとまった時間とスタジオが必要になります。この時期、一番多忙だったのはDylanでした。6月7日から始まるツアーと、そのリハーサルが控えていたのです(このツアーは後にファンが命名することとなる「Never Ending Tour」の始まりでした)。しかし、5月初めであれば参加できるという事になり、場所の問題もDylanのプロデュースを手がけたことがあり、TPの友人でもある Dave Stewartの自宅にあるスタジオを使うことで解決しました。

レコーディングを開始して間もなく、5人のミュージシャンのボキャブラリーの中に「Wilbury」という言葉が加わりました。

これはGeorgeのアルバム『Cloud Nine』の録音中に使われていた仲間言葉で、「スタジオにおけるトラブル・メーカー」の事を指していたそうです。それが高じて、GeorgeとJeffは「Trembling Wilburys (トレンブリング・ウィルベリーズ)」という架空のバンドを考え出しては喜んでいました。2人が好きな仲間を集めてバンドを結成するというアイデアは、スタジオの中でのみ通じる冗談のようなもので、そんな空想に耽りながら何日にも及ぶスタジオワークをこなしてきたのでしょう。しかし、その思いが現実になりました。当然のごとく、夢に描いていた通りのメンバーが集まったこの組み合わせに、「Trembling Wilburys」という名称を使おうとしていたようです。しかし、Dylanの「Travelingの方が良い」という提案で、最終的に「Traveling Wilburys」に決まりました。

Dave Stewart宅での実り多いセッションを終えたGeorgeとJeffは、マスターを抱え、イギリスにあるGeorgeのホーム・スタジオ F.P.S.H.O.T. (Friar Park Studio, Henley on Thames=フライヤー・パーク・スタジオ、ヘンリー・オン・テムズ)で追加録音を行い、再びL.A.に戻ってアルバムを完成させました。

7月、雑誌「USA Today」が初めてグループの事を報じました。異なるレコード会社に所属しているミュージシャンが、1つのバンドを組むという前代未聞のプロジェクトのため、メンバーの本名は明らかにしないという措置が取られたのです。そのため「謎の覆面バンド」とも言われましたが、当初からなぜか写真は公表されていたので、参加メンバーは自ずと知れ渡っていきました。10月のアルバムの発売に向けて、各人のファンのみならず、様々な人々の間で憶測が飛び交い、期待感が高まっていったのです。

10月、ファーストシングル "Handle With Care"『Traveling Wilburys Vol.1』 がリリースされました(日本での発売は11月末)。発売前から流されていた"Handle With Care"のプロモーションビデオの魅力も手伝って、『Vol.1』は好調なセールスを記録し、Billboardでは残念ながら2位止まりでしたが、Cash Boxでは見事1位の座を獲得しています。Wilburyたちはプロモーションにも積極的に参加し、インタビューに応えてレコーディング・セッションの事などを楽しげに語っていました。


『Vol.1』の完成後、メンバーは各々のプロジェクトに戻っていきました。8月に"Handle With Care"のプロモーションビデオの撮影で集まったのが、オリジナルの5人が顔を合わせた最後でした(アルバム発売前後のプロモーションには、ツアー中のためにDylanは参加していません)

12月4日、TPはHeartbreakersの面々と 2nd Bridge School Benefit Concertに参加、同日、Royはクリーブランド近郊の Front Row Theaterのステージにいました。そして、これが彼にとって最後の演奏になってしまうのです。12月6日、ナッシュビル郊外にある母親宅のバスルームで心臓発作を起こし倒れている Royが発見されました。すぐさま、Hendersonville Hospitalに運ばれましたが、手当の甲斐なく午後11時54分に息を引き取りました。享年52。

TPは89年のインタビューで、「Royと最後に話したのは、彼がなくなる2、3日前、電話でだったと思う。RoyはWilburysのアルバムがプラチナ・レコードになった事で、とても興奮していた。『すごいと思わないか?すごいよね!』とばかり言っていた」と、最後になってしまった会話を思い出しています。

Royの葬儀の翌日、残ったメンバーが集まり、"End Of The Line"のプロモーションビデオの撮影が行われました。誰も座っていないロッキング・チェアが静かに揺れ、そして、そこに立て掛けられたギター。何とも物憂げな雰囲気を湛えたビデオが作られました。「いろいろな意味であの時、Royはあそこにいたのだと思う。ぼくたちは彼がいるのを感じていた。1日前にRoyの葬儀があったばかりだったから、ビデオ撮影の時は少し悲しかった。だが、ぼくたちは仕事を続けようとした。それが彼のためになることを願っていた」と、その時の気持ちをTPは語っています。

『Vol.1』からのセカンドシングル "End Of The Line"が発売されたのは、1989年2月。それより少し前にRoyの遺作『Mystery Girl』が発売され、アメリカ・イギリス両国でTOP10にランクインしました。

1989年 ... 残された Wilburyたち

Georgeは、Eric Claptonの新作のために、"Run So Far" "That Kind Of Woman" "Cheer Down"の3曲を提供しましたが、冬に発売された『Journeyman』に収録されたのは"Run So Far"のみでした。TPとの唯一の共作曲 "Cheer Down"はGeorgeも気に入っていたようで、彼の手によってレコーディングされ、この年に公開された映画「Lethal Weapon2」のエンディングに選ばれました(シングルとしても発売)。7月に長期休暇に入る直前まで選曲していた『Best Of Dark Horse 1976-1989』は10月に発売されましたが、そこにも"Cheer Down"は収録されました。

Dylanは5月27日から11月15日の間に、再びNever Ending Tourに出かけます。10月には、U2との仕事で有名なDaniel Lanoisのプロデュース作『Oh Mercy』をリリースしました。

Jeffは、Warner Bros.の系列であるRepriseと契約を結び、初めてのソロ・アルバムの制作に没頭していきます。


そしてTPは …
89年、TPは 『Full Moon Fever』 のセッションを再開して、アルバムを完成させました。発売は3月。第一弾シングルは、Georgeも参加している "I Won't Back Down"。このアルバムには、Dylan以外のWilburysのメンバー全員が参加しています(Roy Orbisonも"Zombie Zoo"のコーラスに)。

その後は、『Full Moon Fever』のプロモーションとツアーに費やしましたが、実は彼を取り巻く環境に大きな変化がありました。

当時のアメリカの音楽業界は、4大レコード会社(MCA、CBS、BMG、Warner Bros.)が市場を占有している状況でした。その中でもWarner Bros.のセールスの伸びには目覚ましいものがあり、ついにはこの年、Billboard誌のトップ・ポップ・アルバムに占める同社系列の所属アーチストの割合いが、40%を越えるまでになりました。また同年、Timeとの合併(買収の方が正しいかもしれませんが)により、Time Warner社として生まれ変わり、さらなる拡大を遂げようとしていました。

Traveling Wilburysの結成に、只一人異義を唱えたレコード会社重役が居ると言われていますが、それは当時 TPが所属していたMCAの Irving Azoff だと思われます。Azoffは、Warner Bros.と会長のMo Orstinに激しい敵愾心を抱いていました。最大のライバルであるWarner Bros.に、話題性のあるTraveling Wilburysのアルバムを発売されることを嫌い、TPの参加に不快感をあらわにしたのでしょう。以前からレーベルとのトラブルが絶えないTPにとっても、Irving Azoffの強引で独善的なレーベル運営方法には反感を感じていた様子が見受けられます。

Traveling Wilburysとしての活動が直接的な原因であったかどうかは断言できませんが、とにかくTPはMCAを離れる決心をします。その時点で、MCAとアルバム4枚分の契約を残していながら、Warner Bros.と新たな契約を結ぶという大胆な行動にでてしまうのです。その内容は、アルバム6枚で2千万ドル(当時のレートで換算すると2億7千万円くらい?)というものでしたが、この契約は、92年春にスクープされるまで秘密にされていました。

トラヴェリング・ウィルベリーズ
next (part 2) →
back to HOME
Here Comes A Heartbreaker! copy right (c) 1998-2012 all rights reserved.
back to TOP