システムを対象とした学問には、システム工学とシステム科学があります。両者はどのように関連づけられるのでしょうか。自分なりに考えてみました。(敬称は略します)
A1.1 システム工学とシステム理論
大学に工学部と理学部があるように、システムに関してもシステム工学とシステム科学という分野があります。
(1)システム工学
私が企業に在籍中は、システムは創造し、実現すべき対象でした。システム工学では、仕様を満足するシステムをどのように構成また最適化し、またどのような過程で実現するか、またそのための基礎となるシステムのモデリング手法やシミュレーション手法が研究されてきました。情報工学も同様に、情報システムはあくまで実現すべき対象です。その点では、情報工学はシステム工学の隣接分野といえます。システム工学や情報工学では、無から<システム>が生み出されます。
(2)システム科学
A1.2 システム論の諸相
私は、この二つの流れをうまく結びつけることができず、心にもやもやしたものを抱えていました。たまたま、山口大学の齊藤 俊教授のホーム・ページ『生体医療工学特論』を見ていたところ、両者を結びつける手がかりとなる図があり、思わずこのページを書いてみました。それを少し加筆したのが、図A1.1です。
図には、いろいろなシステム理論が示してありますが、システム工学に属するものは下部のシステム方法論とシステム・アプローチ、システム科学に属するものが上部のシステム概念やシステム理論/一般です。両者の中間また両者を結びつけるものとしてシステム/個別があります。
システム理論は、図の左にある個別性、同型性という視点から位置付けられます。システム・アプローチからシステム概念に進むにつれ個別性は薄れ、同型性つまりどの分野でも共通的に適用できるシステム理論が重視されるようになります。
では、「システムの記号論」はどこに位置付けられるのでしょう。まずは、記号論をベースに、我々の周囲に実在する<システム>とはなにかというシステム概念を勉強し、それから表現としてのシステム、システム理論や方法論に迫っていくトップダウン的接近方法を採りたいと思っています。
A1.3 恣意性という視点から見たシステム工学とシステム科学
図A1.1では、個別性と同型性という2項対立の軸で、システム理論が整理されています。この章では、システム工学とシステム科学について、記号論でまず出てくる恣意性という視点から考えてみたいと思います。
(1)記号、<システム>の恣意性
ソシュールの記号モデルは、図A1.2に示すように、五感に感じられる記号表現とそれによって我々に中に作られる意味つまり記号内容の2項モデルです。大きな特色は、記号表現と記号内容の関係は恣意的なものであるとしている点です。新明解国語辞典には、恣意は「その時どきの思いつき」とありますが、そんな極端なものはでなく「必ずしも必然的なものではない」ともう少し漠然と考えればよいと思います。よく挙げられる例ですが、<イヌ>を「いぬ」と呼ぶ必然性はありません。記号の恣意性は、このようにその指示物とその名称の関係だけでなく、我々の周囲の世界の区分に関係してきます。たとえば、日本語では「水」と「お湯」のように温度で区分しますが、英語では「water」に水もお湯も入ります。
恣意性と簡単に言いますが、その威力は破壊的です。極端に言えば(本当に極論ですが)、言葉を含めた記号表現はその根拠を持たないことになりますから、表現だけが一人歩きするようになります。我々の周囲に多彩な表現が溢れているのは、この記号の恣意性によるものだと考えられます。<システム>特に人工システムや社会システムにも、このような恣意性が内蔵されています。
「システムの記号論:その3」で、<システム>はコードという仮説を提示しました。コードは、<システム>および要素の振る舞い、機能を規定するものです。しかし、実際の世界で<システム>として実現するためには、図A1.3のようにコンピュータや人間によりそのコードが実行される必要があります。コードを実行する機器、物質や人間を、媒体と総称します。<システム>における恣意性は、コードと媒体との間に出現します。「システムの記号論:その3」で述べたように、情報処理システムの実現はある特定のコンピュータに限定されるものではありません。また、企業や自治体などの組織の成員は、特定の個人に限定されません(独裁国家のように、ある特定の個人に依存している組織もありますが)。<システム>は、ある振る舞いを示す要素の集合体ですが、その要素を実現する媒体からは、独立したものになっていきます。
(2)システム工学、システム科学における恣意性
<システム>の振る舞いを規定するコードとそれを実現する媒体の関係は恣意的であるといっても、システムによってその範囲に違いがあります。人工システム、特に情報システムでは、恣意性の範囲が広いことは、インターネット上の検索エンジンや電子書籍関連端末などを見れば分かります。また、高専の「ロボット・コンテスト(ロボコン)」でいろいろを形態のロボットを見ていて、開発者の想像力の豊かさに感心するとともに、システムの恣意性を実感しました。
それに対して、自然システムとくに生体においては、恣意性はないように思えます。しかし、突然変異や進化によってこれだけ多様な種が存在するようになったことは、環境適応性を恣意性と言い換えてみれば、なんらかの恣意性が働いていたといえるかもしれません。
社会システムはどうでしょう。以前は血縁や地縁が強く、我々の生活もそれに強く縛られてきました。しかし、経済成長とともに、核家族化が進み、生活様式も自由度つまり恣意性がどんどん大きくなっています。それに反してというか、その結果というべきか、行政システムが関与する部分は、どんどん大きくなっています。健康保険、介護、年金、‥‥。行政システムは人工システムであり、必然的なものでなく、我々が造るものつまり恣意的なものです。このような社会を、宮台眞治は『日本の難点』の中で、確固たる基盤が欠けた「底の抜けた社会」と言っています。
人工、社会、自然システムまたそれらを分析するためのシステム科学およびシステム工学と恣意性の関連を、(定性的に)図A1.4に整理してみました。
(3)恣意性は人工システムの力の源泉
恣意性や恣意的という言葉からは「思いつき」や「勝手に決める」とイメージが浮かんできます。実験データや論理を重んじる理工学系の人にとっては、いささか胡散臭い言葉です。しかし、この恣意性は絶大な威力を発揮します。
記号が我々の周りに溢れているのは、表現と意味の関係の恣意性のためです。『ガリヴァ旅行記』のラガドー学士院の研究のように、言葉を全廃し、会話するために、言葉の代わりにそれが意味する実物を持っていくような社会であったら、このように言葉や記号は隆盛を極めなかったことでしょう。またバベルの塔のように、数多くの言語は生まれなかったでしょう。表現が意味から離れたために、表現が浮遊していったのです。
同様に、<システム>とくに人工システムでは、コードとそれを実現する媒体の関係が恣意的であればこそつまり建築物や各種プラントなどのように物理的制約に縛られることがないからこそ、いろいろな<システム>が開発され、逆に我々がそれに縛られる事態になっているといえます。とくに、コンピュータの性能が良くなりまた小型化するにつれ、<システム>の自由度はどんどん、大きくなっています。
まさに、人工システムは恣意性がその力の原点になっているのです。