2.1 記号遷移ダイアグラムの要素
(1)記号遷移ダイアグラムの役割
ソシュールの記号論(記号学)では、現時点の記号体系つまり共時態を研究対象とします。確かに、記号体系の全体構造を明らかにするためには、対象を共時態に絞る必要があります。一方、個々の記号に注目すると、記号はある意図を持って生成され、変化し、最後に消滅していきます。
このような記号の変化に着目することにより、表面的にはまったく異なると考えられている記号の間に、なにか共通した特性が現れるのではないかと思い、記号の移り変わりつまり遷移を表す記号遷移ダイアグラムの検討を始めました。
(2)記号遷移ダイアグラムの基本要素
音楽では、作曲家が内に湧き出した曲のイメージを楽譜に記していきます。ピアニストなどの演奏家はそれを自分なりに解釈し、演奏します。楽譜は記号(または記号の集合であるテクスト)ですし、演奏された曲も聴いている人の中に感動を引き起こす記号です。ただ、演奏された曲は同じ楽譜に基づいていても、演奏者が違いまた演奏時期が異なれば、まったく違う記号です。それに対して楽譜は普遍性を持ちます。しかし、それが意味を持つためには、演奏者という第3者を必要とします。
パースは、演奏された楽曲のように、同じものを指していても別々の実現形態を持つ記号をトークン(個別記号)、楽譜のような個別記号を生み出す記号をタイプ(法則記号)に分類しました。
タイプとトークン、またそれぞれにソシュールの記号表現と記号内容という、パースとソシュールの記号モデルの良いとこ取りをし、それぞれの要素の変化を表す図2.1の基本要素を設定しました。
2.2 タイプ(法則記号)からトークン(個別記号)への遷移
代表的な記号の変化として、タイプ→トークンという型の記号遷移に注目し、その例を考えてみたいと思います。
(1)住宅の建築工事
私達は3年前に、家を全面的に増改築しました。その経験を、記号の遷移という視点から、図2.2のように表現してみました。
設計士は、まず施工主である我々の希望、特に居間や台所やバリヤーフリーについては女性陣の希望を徹底的に聞き出します。我々の希望を聴いた設計士は、それをスケッチとして表現し、それを基に話し合いを重ねていきます。打合せを何回も重ね、設計図と材料表として、形になっていきます。これらは具体的に建築を進めるための、タイプ(法則記号)と考えられます。住宅の設計という作業は、施工主の希望という形になっていない記号内容を、設計図という記号表現に変換する記号過程とみなすことができます。
施工業者は、設計図や材料表を基に工事を進めることになりますが、出来映えは大工さんや建具屋さんの技量に掛かってくることになります。また設計図には、実現が難しいものもあり、細かい修正が出てきます。このあたりが、ものづくりの妙味と言えます。この建築工事は、設計図というタイプの記号表現から、実在として家つまりトークン(個別記号)の記号表現への変換過程と考えられます。
新しい家に住んでみると、満足できる点、不満などいろいろな思いを持つわけですが、これはトークンの記号内容とみなすことができます。幸い、私の新しい家はほぼ満足できるものでした。
(2)制御システムの開発プロセス
私は企業で長年、プラントの動特性解析、制御システムの開発や機械系の設計支援システムの開発などに携わってきました。制御システムの開発にあたっては、制御系の安定性や制御性能を評価する制御システムのシミュレーションが必須の技術となります。
制御系のシミュレーションを記号の変化という観点から見てみたのが、図2.3です。
まず、制御系の環境条件(文脈)を規定していきます。具体的には、制御の対象やその範囲さらに制御すべき変数や制御のために操作できる変数や可動範囲を整理していきます。つぎに、それをモデルとして表現するモデリングを行います。モデリングは、記号内容を表現に変換する記号過程と考えることができます。モデリングは、私が深く惹かれているテーマであり、別のページ検討したいと思っています。モデリングの結果は、微分方程式や代数方程式などの数式やブロック線図やシグナル・フローなどで表現されます。シミュレーション・モデルはいろいろな条件の解析を進めるための基礎的表現ですので、タイプ(法則記号)とみなすことができます。
次に、モデルを基に、制御系のコンピュータ・シミュレーションを行います。シミュレーションは、専用プログラムや汎用の制御系シミュレーション・プログラムを利用して実施します。シミュレーション結果は、数値や時系列グラフで表現されます。この結果は、解析条件ごとに生成されますので、トークン(個別記号)です。
シミュレーション結果から、制御系の性能評価を行い、実用的な制御系を探索していきます。制御技術者にとっては、二つの記号過程、モデリングとしミューレーション結果の評価が腕の見せ所です。
(3)情報システムの開発プロセス
制御から情報へと少し視野を拡げ、情報システムの開発プロセスを記号遷移ダイアグラムで、図2.4のように表現してみました。
図は概念設計から、ソフトウエア開発・検証の過程までを表現したつもりです。しかし、実際はこのように直線的かつ円滑に開発が進むことは少なく、期限に間に合わないまた費用が予算を超過するなどいろいろなトラブルが多発します。その原因の一つは、ユーザが持っているが明示的でないシステムへの要求(または願望)を、仕様書・設計書として表現する過程つまり概念設計にあると言われています。ここは、使用者のシステムに対する願望と期限・費用とのトレード・オフの場ですが、システム使用者と開発者の経験や能力の違いにより、なかなか最適な解が見つからないというのが現実のようです。この概念設計に記号論を適用する組織記号論も検討されています。
(3)企業における新製品開発
どんどん話しを拡げていきます。開発ということに注目すれば、企業での新製品開発も、同様に記号の遷移過程として、図2.5のように表現することができます。
新製品の開発コンセプトという意味を、表現として具体化するのが開発・設計です。このうち、設計に関してはコンピュータの高機能化・低価格化により、設計のCAD(Computer Aided Design)が普及し、設計方法が大きく変わりました。大学でも、機械工学系では、3次元CADを用いた設計が教えられています。
一方、設計データというタイプ(法則記号)から、具体的なトークン(個別記号)を生み出すのが企業の製造部門です。ここでは、ものづくり技術が重要となってきます。ものづくり技術は、わが国の強みの一つであるということが、最近再認識されています。
(4)学会への論文投稿
研究や開発の最終工程は、それを記録として残すことです。その一つが、学会への論文投稿です。論文の執筆・投稿・審査・印刷&配布という一連の過程を、記号遷移ダイアグラムで図2.6のように表現してみました。
理工学では、現象を正確に捉えまた論理的に思考することが求められます。しかし、それは、自分の主張を簡潔にまた的確に他人に伝えることと等価でありません。執筆しようとする意味つまり主張したいことを、論文や報告書として表現することをあまり得意としない技術者がいるのも事実です。
プレゼンテーション技術がますます進歩する現在、文章や図といった基礎的な表現技術また文学や美術などの理工系からちょっと離れた知識が、理工系の技術者にとって重要になってくるのではないでしょうか。
2.3 トークン(個別記号)からタイプ(法則記号)への遷移
工業生産量の変化から、景気の動向を推論することがよく行われています。これは、現前するトークン(個別記号)の集合から普遍性を有するタイプ(法則記号)へ記号を遷移させていると考えられます。ここでは、トークン→タイプという型の記号遷移の例を挙げてみます。
(1)理工学における基礎研究のプロセス
2.2ではシステムや新製品の開発プロセスを記号遷移過程として図化しました。これは、ものの創造と捉えることができます。では新しい理論や法則などの発見は、どのように捉えられるのでしょうか。
理工学における基礎的な研究のプロセスを図2.7のように表現してみました。新しい研究には、その動機があります。例えばまだ原因が解明されていない現象や興味を引かれた仮説です。しかし、新しい理論や主張が直線的に導かれる訳でなく、まずデータ集めをしなければなりません。そのデータは、実験データやフィールド・データまたは公表されている文献などです。いずれにしても、それのデータは個々に現前するものですからトークン(個別記号)です。
トークンが集積されると、それらに共通する特性を成立させる理論を推論によって、導き出します。そのような発見プロセスとして最近注目されているのが、パースが提唱した仮説推論です。これは、成立すれば、注目する現象が説明できる仮説を探すものです。仮説推論はあくまで仮説を探すものですので、その仮説が論理的に成り立つかどうか、演繹や機能といった論理的方法により検証します。このようにして導かれ、証明された理論はタイプ(法則記号)です。
理工学における基礎的な研究は、トークンからタイプを導くプロセスとして表現することもできます。
(2)テクストの記号論的分析
新聞やTVなどのニュース、広告、政治家の発言など我々に提供される情報は、中立的なものとして、あまり疑いもなく受け入れがちですが、必ず発信者の意図が介在しています。また、我々の日常生活もいろいろな(目に見えない)規約(コード)に縛られています。我々はそれらのコーを意識せずに受け入れて、生活していますが、それらは自然発生的なものでなく、周到に作られたものです。それは、歴史の教科書を読んでみると理解できますが、現時点の社会(共時態)がどのようなコードの下にあるのか、意識して情報を分析していかないと、なかなか把握できません。
注目する現象(ここでは対象といいます)がどのようなコードの下にあるのかを明らかにしようとするのが記号論的分析です。対象の構造を統語分析や範列分析などで明らかにし、さいごに対象の振る舞いを規定しているコードを探り出します。
ダニエル・チャンドラー『初心者のための記号論』の「記号論的分析の演習」に具体的な手順が記載されています。それを基に、図2.8のような記号遷移ダイアグラムを作成してみました。まず、分析の対象およびその視点を定めます。次に、それに適した資料(テクスト)を集めます。この集めた資料がトークン(個別記号)の集合となります。
そのテクストを統語、範列、共示義、比喩などの視点から資料を分析し、テクストに含まれる記号の振る舞いを規定するコードを探し出します。そのコードはタイプ(法則記号)です。
(3)伝統芸能における「技」の習得
日本舞踊や茶道などの伝統芸能における「形」と「型」について、勉強したことをまとめたことがあります。普遍的な知識を教える学校教育に対して、伝統芸能では先生がまずお手本を見せ、弟子はその「形」を自分なりに真似するという見取り稽古による教えが行われます。生徒の形は、先生の前に現前する記号であり、トークンです。
そのような練習をひたすら重ねることにより、その芸の本質に迫っていきます。芸の目指すものを「型」といい、その「技」だけでなく、生きる姿勢として普遍的なものになっていきます。この「型」こそ、タイプといえます。
安直ですが、伝統芸能における「技」の習得は、トークン→タイプという記号遷移として図2.9のように表現することもできます。
(4)推理小説での犯人の探索
話しは、どんどんとりとめも無くなりますが、(古典的な)推理小説の探偵の犯人探索法を考えてみます。探偵としては、シャーロック・ホームズや最近ではTV番組『相棒』の杉下右京をイメージして下さい(ちなみに、我が家はシャーロック・ホームズ、ポアロ、相棒のファンです)。
殺人事件が起きると、主人公(探偵)がタイミングよく現れ、現場の状況や被害者の交友について調べていきます。その調査データを下に、犯人を特定していくわけですが、T.A.シービオク&J.ユミカー=シービオク『シャーロック・ホームズの記号論』に述べられているようにその推理は、演繹推論でも帰納推論でもなく仮説推論です。つまり、犯人を次々に仮定し、事件の状況をもっとも無理なく説明できる人を特定します。小説やテレビ・ドラマでは犯人や推論過程が読者や視聴者の想像をちょっと超えているところが妙味と言えます。
探偵が調べた事件のデータをトークン、推理した犯人像をタイプと考えれば、探偵の推理は図2.10のような記号遷移ダイアグラムで表現できます。
(5)記号遷移ダイアグラムで記号の変化を表現してみて
記号の変化を「タイプ→トークン」、「トークン→タイプ」という観点から捉え、具体的な例をいくつか考えてみました。ここで挙げた例題が系統的でなく、またタイプやトークンをかなり拡大解釈しているきらいがありますが、記号の生成・変化プロセス全体を見渡すのに記号遷移ダイアグラムは有効かなという感触も持つことができました。
私は実務につかず主に書物から知識を得ているため、どーしてもタイプ(ソシュールのラング)に興味を惹かれますが、我々の前に現前するのはトークン(ソシュールのパロール)であり、またタイプへの出発点になるのもトークンです。「ものづくり」はトークンを生成する技術とも考えられます。今後、トークンも気にしつつ、勉強していきたいと思っています。