記号工研究室 >研究成果>形と型

        形(かたち)と型(かた)

        田沼正也

           

        1 なぜ、形と型か

        (1)呼吸の形と型
         個人的なことですが、私は楊名時太極拳を習っています。楊名時健康太極拳では、力を入れない緩やかな動きにあわせた深い呼吸が要求されます。私は呼吸法を勉強したくなり、斉藤 孝『呼吸法入門』を読んでみました。
         『呼吸入門』では、「3秒吸って、2秒溜めて、15秒吐く」呼吸法により、日本人に古来受け継がれてきた「呼吸力」を取り戻そうと呼びかけています。呼吸法とその効果とともに、ちょっと違った意味で、次のような文章に興味を惹かれました

           三秒吸って二秒溜めて十五秒吐く。これは、数千年の呼吸の知を非常にシンプルな形に凝縮した「型」です。
            ‥‥‥‥‥‥‥‥
           これは「誰でもその場で教えられる。誰が教えても同じようにできる。誰がやっても同じ効果がある」という、私が最も重視する型の三要素を満たしています。

           もともと日本人は、「型」を創出することに才能がありました。
           お茶を飲むということをあれほどに「型」に仕上げるということは特異なことです。お茶なんぞは飲めればいいではないか、花なんか別に挿しておけばいいではないか。柔道だったら人を投げられればそれでいいではないか。しかし、そういうことではなかった。
           日本は、所作振る舞いの礼儀作法から人の投げ飛ばし方や倒れ方まで、そういったすべてのことをマニュアル化する技に長けた民族でした。
            ‥‥‥‥‥‥‥‥
          達人の境地を最短距離で会得するための道、それが「型」だったのです。(引用おわり)

        (2)記号の型と形
         呼吸における型は呼吸法の基本形、形はそれを実現した形態です。「型」は一つですが、「形」はそれを行う人によって千差万別です。このような「型」と「形」の関係は、記号にも存在します。

         記号論の創始者の一人であるチャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Pierce,1839-1914)は記号の第1次性、第2次性、第3次性という視点を提唱し、記号をまず9種類に分類しました。第1次性、第2次性、第3次性とは次のようなものです。

        • (1)第1次性:そのものが他のいかなるものとも関係なしに、そのものであるような在り方(例えば、まったく理解できない抽象絵画)
        • (2)第2次性:そのものが、第二のものと関連し、しかし第三のものは考慮せずに、そのものであるような在り方(例えば、楽しいJAZZを聞いた時の感動)
        • (3)第3次性:第二のものと第三のものを互いに関係付けることにより、そのものであるようなものの在り方(例えば、携帯電話による二人の間の会話)

         パースは、第1次性つまり記号それ自体の在り方の観点から記号を分類し、性質記号(第1次)、個別記号(第2次)、法則記号(第3次)と名づけました。 法則記号はタイプ、個別記号はトークンとも呼ばれますが、なかなか有用な考え方です。

         「型」は「形」とその意義つまり意味を関係付けるものつまり法則記号、「形」はそれを実践することにより効果が得られるつまり個別記号と、「型」をタイプに「形」をトークンに対応させることができると考え、記号工学のページで「形」と「型」を取り上げてみました。

        2 「わざ」の世界ではまず「形」から入り「型」にいたる

        (1)見取り稽古という練習法
         野球は、まず捕球や打撃などの基本技術をある程度習得してから、試合形式の練習に進んでいきます。しかし、全ての身体技術が個から全体へと練習を進めていくわけではありません。全体の練習から入るものもあります。楊名時太極拳は24式の型を繋げていきますが、一つ一つの型(式)をマスターしてから24式を練習するという過程は取らず、新人でもベテランに混じっていきなり24式を練習させられます。見よう見まねで24式を通します。1回の練習で2つの型を練習する部分稽古もありますが、これも新人だからといって特別扱いするわけではなく、先生の形を真似て行います。いわゆる見取り稽古です。このような練習法に違和感を感じない人が残っていきます。30年以上続けている人も稀ではありません。まだるっこい感もしますが、すこしづつ進歩を実感していけるのも楽しいものです。また、表面的な動きだけでなく、内面的なものを見つめながら練習していけるというのも、素晴らしいことです。

        (2)模倣から習熟へ
         日本舞踊、三味線、茶道、華道などの伝統芸道における芸の習得は、楊名時太極拳と共通点があります。それは「形」から入っていくということです。
         「わざ」の世界で「形」が「型」に至るプロセスを追い、それから知識や教育について考察した生田久美子『「わざ」から知る』は、なかなか示唆にとむ本です。その中から、興味を覚えた部分を紹介します。少し古い本ですが、興味を持った人は、是非読んでみてください。
         古典芸道の世界では、まず先生の模倣からはじめ、稽古を繰り返すことにより、習熟していきます。『「わざ」から知る』からの引用です。

          ‥‥ 例えば、やはり日本古来の伝統芸道の一つである日本舞踊の世界では、入門者は、お辞儀の仕方や舞台で最低守らなければならない作法を指示されるといきなり作品の教授が開始される。入門したての学習者は日本舞踊のイロハも分からないままに、邦楽のテープに合わせた師匠の動作の後についてそれを模倣する。

          伝統芸能の習得プロセスに共通している特徴は、学習者は一つの作品の全体的な模倣から出発するといういう点、また細かなカリキュラムもなく、易しいものから難しいものへと学習を積み重ねていくという、いわば学校教育的な段階的学習法とは全く異なるという点にある。(引用おわり)

         「わざ」の習得は、螺旋階段を一歩一歩、昇って行くような学習法と言えます。

        (3)「形」から「型」へ
         では、「形」から「型」へどのように進化していくのでしょう。その前にもう一度、「形」と「型」の違いを明確にしておきたいと思います。生田久美子によれば、それらは次のようにまとめることができます。

        1. 「形」:外面に表された可視的な形態であり、各「わざ」の世界に固有の技術あるいは技能(例:日本舞踊の「形」、茶道の「形」、華道の「形」等)。
        2. 「型」:人間の生活の中で生じてくる「形」の意味

         生田久美子は、「形」と「型」の違いを、フランスの社会学者マルセル・モース(Marcel Mauss)の提唱した次のような[ハビトス](日本語で「型」と訳されています)を用いて、説明しています。

           この言葉[ハビトス]は、アリストテレス(心理学者であったのだが)が用いた《素質》(exis)、《知識》(aquis)、《能力》(faculte)を《習慣》(habitude)とは比較にならぬほどに巧みに表現している。この言葉は、いろいろな書物や簡単で有名な論考の主題となった。かの形而上学的な習慣とか、神秘的な《記憶》(memorie)を指し示してはいない。この[ハビトスとして捉えた]《習慣》(habitude)というものは、個々人や彼らの模倣とともに変化するだけでなく、とりわけ社会、教育、世間のしきたりを受け、威光とともに変化するものである。通常は精神とその反復能力のみしか見出さないところに、技法と集合的個人的な実践理性を実践理性を見出す必要があるのである。(Mauss 1968)

           モースは「ハビトス」を無意識な動作の連続としての「習慣」とは異なる、学習者の社会的かつ理性的な働きを前提とした身体技法として捉えたと言って良いであろう。 ‥‥‥‥
           モースは、「われわれの問題は身体技法にあると端的に言わねばならない、身体こそ人間の不可欠の、またもっとも本来的な道具」(Mauss 1968)であり、「いわゆる技法なるものにはすべてその型があるのである」、と「型」が人間が生きる上での基本であり、しかもそれは単なる反復練習によって獲得されるものでなく、社会的、文化的な状況の力に影響される点を強調している。(『「わざ」から知る』よりの引用)

         長々と「ハビトス」についての文章を引用してきましたが、記号論の用語使うと、「ハビトス」つまり「型」は、「形」を決めているその「わざ」のコードと考えると良いのではないでしょうか。

         では、どのようにして「形」から「ハビトス(型)」へと進化していくのでしょう。モースは、その駆動力として、威光模倣という考えを提示しています。「威光模倣」とは単に権力者の指示に唯々諾々と従うことではなく、「個々の模倣者に対して秩序立ち、権威のある、証明された行為をなす者の威光」であり、当の模倣者が認識している点が前提となっています。学習者は、自分が学んでいる世界が「善い」ものであると認め、先生の「わざ」を模倣することにより、次第にその意味つまりその世界のコードを認識していきます。

        3 学校教育における「形」と「型」

        (1)江戸時代の寺小屋
         江戸時代の子供の教育は、寺小屋で行われていました。全国では、寺小屋は約5万ヶ所以上あったようです。現在の小学校がおよそ2万3000校ですから、全国で熱心に教育が行われていたことが、推定できます。では、どのような教育が行われていたのでしょう。
         小泉吉永『江戸の教育に学ぶ』(NHK教育テレビで2006年10、11月、知るを楽しむ−歴史に好奇心−で放送)から、寺小屋教育がどのようなものであったか知ることができます。以下のことは、それから抜書きしたものです。

         寺小屋は、数名から数十名規模、さらには二階建てや数棟の建物で数百名を教える大規模なものまで、千差万別でした。指導方法や教科も師匠によって異なりました。ふだんは子供たちが黙々と手習いを練習する自習形式が中心で、時々、テキストの読み方などを個別に指導したり、一斉指導も行いました。
         教科書には、主に「往来物」が使われました。「往来物」というのは聞きなれない言葉ですが、往復一対の手紙を集めた形で編集された教科書であり、1万種以上出版されました。
         職業別に「往来物」が作られ、堀流水軒『商売往来』(元禄七年:1694年)には、商取引に必要な言葉や商品の名称、そして勤勉・正直・倹約といった基本的な商人心得に触れて結んでいます。「往来物」により、文字・文章の読み書きといった必要不可欠な知識とともに、これから自分が生きていく世界についての基本的知識も学んでいけるというところに「往来物」の知恵を感じます。
         職業別に多くの「往来物」が作成されました。そのジャンルは、驚くほど多岐にわたっています。

        【農民】、【漁師】、【大工】、【左官】、【船匠】、【商人】、【呉服屋】、【八百屋】、【回船業】、【本屋】、【道具屋】、【銭湯】、【材木屋】、【米屋】、【薬屋】、【質屋】、【遊女】、【商社】、【貿易商】、【金融業】、【諸 職】

         多少こじつけかも知れませんが、寺小屋教育は、「わざ」の世界の形から入る接近法と共通点が多いように思います。その第1は、テキストの模倣から入り、文字の読み書きだけでなく自分の生きていく世界についても学ぶことができること、その第2は師匠の「威光」が寺小屋教育の原動力になっていたことです。寺小屋の師匠は地域から大事にされ、また人格者も多かったようです(寺小屋の師匠は、けっして裕福ではなかったようです)。

         『江戸の教育に学ぶ』を読んで、「往来物」という寺小屋教育の教科書があったこととともに、そういう地味な分野に20年間も熱心に取り組んでいる小泉吉永さんという研究者がいることを知ったのも嬉しい驚きでした。

        (2)「型」から入る現代教育
         現代の教育は、ある特定の職業の知識ではなく、普遍的な知識を教えます。その典型的なものが数学、物理、化学などで、その知識は広い領域に適用できます。例えば、力学で まず教えられる物体の運動方程式(f=mα、f:力、m:質量、α:加速度)は、どんな地域でもまたどんな材質の物体にも適用できます。また、理工学系の研究においては、普遍的な結論が求められます。
         江戸時代には、身分制度が明確であり、基本的には子供は親の職業を継ぎました。現在の産業社会では、子供の職業は大部分、親の職業とは異なります。職業選択が自由になったと言えますが、それは産業社会の求めるものでもあります。つまり、その時代の要求に応じて、労働者の最適配分が必要となってきます。それを実現するためには、特定の職業で要求される知識が得られるような教育ではなく、どんな職業についても役に立つ普遍的な知識が得られる教育が求められます。

         (無理に)、現代の教育を「形」と「型」と関係付ければ、それは、この世界を規定するコードつまり「型」を教える教育と言えると思います。

        4 「形」と「型」の間の架け橋は?

         「わざ」の世界のように、「形」の模倣から入る接近法の長所と短所を簡単に整理してみます。

        1. 長所1:繰り返し練習することにより、知識が身体技法として定着する。
        2. 長所2:自分の世界を総合的に知ることができるようになる。
        3. 短所1:習熟するまでつまり「型」に至までに長期間要する。つまり効率が良くない。
        4. 短所2:世界が狭くなりがちである。他の世界との交流にあまり積極的でなく、保守的になりがちである(例:相撲、柔道)。

         一方、「型」から入る現代教育は、効率の良い教育形態ですが、どうしても「形」つまり実現形態についての意識が希薄になります。この結果、企業では新入社員に対して、改めて職業訓練を行うことになります。また、コンピュータ関連や医療関係などのの専門学校で実務に役立つ知識を学習する人もいます。良い例えではないですが、専門学校は現代の寺小屋と言えるかもしれません。

         理工学でも、実験研究は「形」から「型」へと進む研究、理論研究は「型」から「形」へと進む研究と言えるかも知れません。「形」から「型」へ、「型」から「形」へ、この2つのアプローチをうまく融合させることはできないのでしょうか。
         「形」と「型」、(私にとっては)興味深い課題です。