1 最近、気になった2つの事件
次の2つの事件は、相互に何の関係もありませんが、両者ともカオスと言えるのではないかと考えました。
(1)高齢者の所在不明問題
2010年7月29日、東京都足立区の民家で、明治32年7月22日生まれで、戸籍上は東京都男性最高齢の111歳とされていたKさんのミイラ化した遺体で見つかった、というニュースが新聞・テレビで流れました。戸籍上は生存者であり30年間遺族共済年金が支給され、また東京都の男性最高齢者とされ、(多分)いろいろな顕彰されてきた方が実際は死亡していたというのはショックな報道でした。
この報道は、これと同様なことが、他の自治体でも存在するのではないかという憶測をよびます。全国の市町村で調査が行われました。すると、続々、同じような事実があることが明るみに出てきます。例えば、横浜市2,247人、和歌山市1,405人、長崎市253人‥‥(2010年8月28日時点)。さらに、法務省が戸籍の付表に基づいて調査した結果では23万4000人という膨大な数にに上っています(2010年9月10日)。
これは、戸籍という表現と本人の対応をどのように確保するかという記号論にも関係する問題にも関係していますが、ここでは、予想できない大きな社会現象が7月29日の一つの報道により引き起こされたということに注意を向けていきます。
(2)コーラン焼却計画事件
米フロリダ州の教会が、2001年の米同時多発攻撃から9年を迎える2010年9月11日を「国際コーラン焼却デー」とすることを計画し、それをマスコミが大々的に報じました。
一方、この愚かなコーラン焼却計画をめぐっては、宗教関係者のほか、米国政府高官からも強い非難の声が挙がりました。クリントン国務長官「恥ずべき行為」、アフガニスタン駐留米軍のペトレアス司令官「兵士らを危険にさらし、これまでの努力を危うくするもの」。
抗議は世界中に拡がり、抗議行動は激しさを増していきました。
2 カオスと記号
(1)カオスという視点
システム理論では、複雑系やカオス理論の研究が盛んに行われています。複雑系やカオス理論では、バタフライ効果という比喩がよく出てきます。これは、カオス力学系において、通常なら無視してしまうような極めて小さな差がやがては無視できない大きな差となる現象をさします。有名な例として、「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」があります。
私は、この表現に多少違和感を覚えていました。特定の確定系の数式を数値解析すると、予期しない挙動を示すカオス現象を可視化できるかもしれないが、自然界においては、種々の減衰要因が働き、比喩のような現象は実際には起きないだろうと思っていました。しかし、上に挙げた2つの事件のニュースに接して、人間社会ではカオスが頻繁におこり、記号がそのトリガーになるではないかと思うようになりました。
(2)2つの事件にみられるカオス
あまり良い喩えではありませんが、「高齢者所在不明事件」は遺跡の発掘と似ているととろがあります。遺跡は、土の中に存在していますが、見つけられるまで事実ではありません。発掘されて始めて事実になります。所在不明の高齢者は、存在していました。しかし、我々にとっては事実ではありませんでした。単純に、東京都の最高年齢者は111歳だと信じていました。ミイラ化した遺体が発見され、報道され、初めて所在不明の高齢者がいることが事実となったのです。
東京都の事件を契機に、いろいろな自治体で「所在不明の100歳以上の高齢者が存在するのではないか」という疑問が沸き起こり、調査が始まりました。その結果が、法務省の23万4000人です。たった1件の高齢者所在不明事件が全国に拡散し、無視できない現象が出現するまさにバタフライ現象が出現したといえます。
「コーラン焼却計画事件」は、異なるタイプのカオスです。ここでは、カオスの発信源は、米国のフロリダ州です。ここからの衝撃は、津波のように瞬くうちに世界中を駆け巡り、20人以上の死者を出すという悲劇を引き起こしました。計画が報じられ、それを聞いた大半の人が、これは大きな抗議行動が起きるだろうと予測したと思いますが、大勢の死者が出るだろうと、計画した本人さえ想像していなかったでしょう。焚書といえば、秦の始皇帝やナチス・ドイツが心に浮かびますが、その影響が予測しない地点でまた予測できない形で現れる新しい型の焚書事件と言えます。
(3)記号がカオスを招く:高齢者所在不明事件
ここでは、高齢者所在不明事件が何故起こったか、その事件の構造はどうなっているかを分析するのではなく、その事件がどのように拡大していったかを、記号論の視点から考えてみます。
記号工学研究室では、記号がどのように変化していくかを表現するため、記号遷移ダイアグラムを提唱してきました。図1に、事件の拡大プロセスを記号遷移ダイアグラムで表現してみました。
事件のきっかけは、偶発的なものでした。それが、メディアで報じられ、記号化します。それが、全国に広まり、各地で高齢者の所在確認が行われ、100歳以上の所在不明はどんどん増えていきます。これは、図にあるように、記号の正帰還としてモデル化できます。
最初のできごとは、偶発的なものですが、それからの過程は、日本社会に潜む構造によるもので、確定的なプロセスから予測できない現象が生まれるカオスと言えます。私が興味を引かれるのは、このカオスを起こしたのは、一つの事件の報道つまり記号だということです。その記号が、23万人余の100歳以上の所在不明者の生み出しました。まさに、一つの記号が「バタフライ現象」を招いたといえます。
(4)記号がカオスを招く:コーラン焼却計画事件
「コーラン焼却事件」は、異なる型の「バタフライ現象」です。事件の発端は、フロリダの教会で行われた計画で、偶発的なものです。しかし、それがメディアで報じられ記号化すると、影響は予測されていなかった規模で拡大し、多くの犠牲者がでました。各地で起こった抗議行動は、その国の構造に根ざしたもので、確定的なものです。「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」。計画が記号となり、テレビ、新聞、インターネットに載り、世界中に拡散し、嵐を引き起こしました。まさに、記号がカオスを招きました。
2つの事件はまったく関係のないものですが、カオスの「バタフライ現象」という共通性に注目して、記号遷移グラフで図化してみました。この検討を通じて、私が得た仮説を以下にまとめてみました。