我々はパーソナル・コンピュータ(PC)を用いて、インターネットからさまざまなデータを引き出し、それを利用して報告書や資料を作成します。また、数値計算を行うこともあります。その処理結果はディスプレイ上に表示され、必要に応じてプリンターで紙に出力されます。ディスプレイ上に表示また用紙に印字されたデータ、図表や文章は情報という言葉で括られますが、それらは作る人、見る人にとって意味を持つ表現と言うこともできます。コンピュータは、情報を作り出す装置ですが、記号論の立場からは、記号(正確には記号表現)を生み出す装置と捉えることができます。
記号と情報は非常に近い概念ですが、情報処理学会誌やインターネットで調べた限りでは、その二つを結びつける研究は、東京大学大学院の石田英敬研究室の情報記号論がありますが、わが国では少ないように思われます。
一方海外では、ヨーロッパを中心として、情報特に情報システムと記号論を結び付ける研究が着実に進められています。その中心が、企業・行政・教育機関などの組織を、記号論の視点から理解しようとする組織記号論(organizational semiotics)であり、使いやすいユーザインターフェースやその組織に適した情報システムを構築するための要求定義の方法(要求工学)がターゲットとなっています。毎年、organizational semioticsのシンポジュームも開かれています。
この章では組織記号論(organizational semiotics)を部分的ではありますが、紹介したいと思います。なお、本章は「11章コード」と関連します。
11.1 組織記号論とは?
(1)コンピュータ記号論の視点
The University of Aarhus(デンマーク) のPeter Bosh Andersen は、コンピュータ・システムを記号システムとして理解しかつ設計するための枠組みとしてコンピュータ記号論(Computer semiotics)を提示しています。そして、コンピュータ記号論の視点から、記号が担う役割を図11.1のように表現しました。
彼の論文『コンピュータ記号論(Computer semiotics)』から、それぞれの項目の要点を引用してみました。
図11.1はしばしば引用される図です。従来の記号論のテキストが論じている分野が主に文学、映画、美術や社会現象という人文系統であるのに対して、上の図は情報システムという対場で記述しており、記号に対する新しい視点を与えてくれます。
(2)組織記号論の拡がり
コンピュータシステムを含む組織を理解、設計また変革するための方法論の確立を目指す組織記号論は、1973年にRonald Stamperによってその研究が始められました。その後の経緯や現状は、Henk W,M.Gazendamのレビューに簡潔にまとめられています。
組織記号論は、システム指向、行動指向そして知識指向アプローチに分類されます(これは、図11.1の地図に対応しています)。現時点で内容がもっとも充実しているのは、Ronald Stamperを中心とするグループにより進められている行動指向アプローチとくに情報の場をベースにした組織記号論です。これからは、行動指向アプローチを取り上げてみたいと思います。
| 大分類 | 小分類 |
|---|---|
| システム指向アプローチ> |
|
| 行動指向アプローチ | 情報の場をベースにした組織記号論 |
| 相互作用構造をベースにした組織記号論 |
|
| 知識指向アプローチ |
|
11.2 Ronald Stamperの組織記号論は情報の場としてのノルムを重視する
11.2、11.3では、Ronald Stamperが中心となって理論付けやシステム開発のためのツール整備を進めてきた組織記号論をKecheng Liu(Staffordshire University,UK)『Semiotics in Information Systems Engineering』から紹介します。
(1)情報システム開発の問題点
岡崎裕史『ウチのシステムはなぜ使えないか』は次のように始まります。
『Semiotics in Information Systems Engineering』でも、開発プロジェクトの31%が完成前にキャンセルされ、53パーセントが予算オーバーか開発期限オーバーになっていると報告されています。まあ、日本でも英国でも、ソフトウエア開発はなかなかユーザが希望しているようにはいかない、というのは共通しているようです。
では、どこに問題が潜んでいるのでしょう。通常、ソフトウエア・システムの開発には図11.2のようなウオータホールモデルが使われます。システム開発の工程管理には便利な方法ですが、最上流の要求定義・要件定義が充分ではないため、完成したシステムに不満が残るというケースがしばしば生じます。では、どんなシステムをつくりたいかという要求定義は、なぜ難しいのでしょう?
(2)情報システムの記号論的枠組み
情報システムを評価する場合、業務をカバーしているか、使いやすいか、処理速度は満足できるものか、使い方を誤ってもダウンすることはなく信頼できるシステムかなどいろいろな指標が考えられます。ただ、思いつくままに評価項目を挙げるのではなく、そのための枠組みを明確にしておけば、視点が定まってきます。
情報システムの記号論的枠組みとしての6層モデルを図11.3に示します。このモデルの特徴は、情報(データ)をコンピュータで処理することに着目したITプラットフォームとその情報を人間が受け取り理解する過程に着目した人間の情報処理機能という2つの枠組みを設けたことです。
組織記号論では、人間の情報処理機能に着目し、意味論・実用論・社会的世界という観点から情報システムのモデル化を進めていきます。
我々は、情報という言葉をいとも気軽に使いますが、情報と情報理論での<情報>との間には何か差があるのではと感じるのは私だけでしょうか。情報とは何かということを人文科学的な観点から問うのが、情報論・情報学・情報哲学といわれる分野です。その一つの赤木昭夫『反情報論』では、情報をコンピュータやネットワークで処理されるシンタクティック情報、我々が意味があると感じるセマンティック情報に区分し、それぞれの特性を論じています。図11.3のITプラットフォーム、人間の情報処理機能はそれぞれシンタクティック情報、セマンティック情報に対応します。これから、図11.3は、情報論や情報哲学と一脈通じるところがあることが分かります。
(3)着目する組織行動
組織記号論では、組織の行動モデルを作成し、その行動を規定するノルムを明らかにし、それをベースに情報システムの開発を進めていきます。では、なにをもって組織の行動とするのでしょう?
組織の行動として、図11.4に示すように、以下の3種類を取り上げます。
11.3 ノルム分析は組織の行動モデルがベースとなる
(1)エージェントとアフォーダンスから構成される意味モデル
企業や自治体などの組織モデルというと、図11.5のような組織の階層を表す樹木図を思い浮かべます(私が市のホームページを見て、勝手に作りました)。これは、組織をその構成つまり構造に着目したモデルと言えます。
それぞれの部署に、その部署の役割が付記されていれば(ホームページでは、役割が記されたページにリンクされています)、名称と役割説明からその組織の概要を知ることができますので、構造図も組織を表す有効な手段です。
一方、Ronald Stamperらは、組織を行動(または挙動)という観点でモデル化します。これを意味モデル(semantic model)といいます。その基本要素は、図11.6に示すエージェント(楕円)とアフォーダンス(長方形)です。
図11.7はKecheng Liu『Semiotics in Information Systems Engineering』から引用したプロジェクト管理の意味モデルです。
意味モデルでは、そのエージェントやアフォーダンスが存在する前提条件に注目し、その前提条件を図の左に配置します。このため、図の一番左には国家や社会などの大きな単位が配置されます。図中で半楕円は、役割(role)を表します。図ではプロジェクトがアフォーダンスになっていますが、ある環境のもとでは(例えば、新製品や新技術を複数部門が協調して開発する)、組織がプロジェクトを立ち上げるという行為をとることができることを意味しています
この図を見ていると、いろいろな事が思いつきます。例えば、プロジェクトを発足させるという決断を下すのは誰だろう?そのためには、どんな情報が必要になるのだろう。プロジェクト要員を集めるのは誰なのだろう?そのための情報は何なのだろう。仮に、プロジェクトがうまく行かなくなったとき、撤退命令を下すのは誰だろう?‥‥
意味モデルが作成できたら、それをもとにエージェントの行為を規制するノルムをノルム分析で探っていきます。
(2)エージェントの行動を支配するノルム
『初心者のための記号論』のコードの章を読んだ人は、記号の働きを考える場合、コードという概念は便利だと感じたと思います。でも、コードを体系的に整理できるかというと、もどかしい思いを抱いたのではないでしょうか。
ノルムも同じような性格を持っています。エージェントの行為を規定するノルムはと問われても、具体的な行為に対しては答えられるでしょうが、一般的なノルムと聞かれれば、答えられません。
そこで、Kecheng Liu『Semiotics in Information Systems Engineering』では、表11.2に示すようにビジネス組織における3種類のノルムを提唱しています。これらのノルムは排他的なものでなく、アフォーダンスに応じて複数のノルムを用いても支障がありませんし、あくまでノルムを見出すための指針です。
| 分類の視点 | 内 容 |
|---|---|
| 人間行動 |
|
| 実効性 |
|
| 対 象 |
|
(3)ノルム分析の手順
組織の意味モデルにもとづき、エージェントの行為を規定するノルムを見出すノルム分析の通常の手順を以下に示します。
ステップ1:権限・責任分析(responsibility analysis)
ステップ2:原ノルム(Proto-norm analysis)
ステップ3:トリガー分析(trigger analysis)
ステップ4:ノルム詳細明細書(detailed norm specification)
このノルム分析を通じて、エージェントの行為(アフォーダンス)に組織のどういう人たちがどのような権限・責任で関係するか浮かび上がってきます。同時に、その人たちが的確な決定を下すためには、どのような情報がどの時点で必要となるかが明確にできます。これは、情報システムの仕様決定に他なりません。
ヨーロッパで主に研究が進められている組織記号論をKecheng Liu『Semiotics in Information Systems Engineering』を参照して、簡単に紹介してきました。Ronald Stamperはユーザの視点に立った情報システム開発のため、1970年後半から、開発プログラムMEASUR(Method for Eliciting, Analising and Specifying Users' Requiremnts)でノルム指向のシステム開発手法またツールを整備してきました。本章では、それらのツールには触れず、基本的な考えの紹介のみにとどめました。