『初心者のための記号論』に「演習」の章がありました。具体的な演習テーマが与えられてはいませんが、記号論的分析の手順が示され、それに沿って、学生が各人のテーマを分析してみようという内容でした。
この章では、その手順を守っていませんが、工学に関連したテーマで記号論的分析の演習をしてみたいと思います。テーマは、製品や部品に付けられる識別コードです。
コンビニエンス・ストアやスーパーマーケットをはじめほとんどのお店で販売されている商品にはバーコードが付けられ、レジでそのデータが読み取られ、POSシステム(Point of sale、販売時点情報管理システム)に入力されています。データには、その商品の識別名称または識別番号が記入されてきますが、それはどのような規則に基づいて決められているのだろうと思ったのが、このテーマを選んだ動機です。
ここでは、商品、製品、部品など有形なものの識別名称や識別番号を、一括して識別コードと呼びます。識別コードはもの(商品・製品・部品)とコンピュータ・システムで管理される情報とを結び付ける接続端子ですし、製品・部品管理に不可欠なデータであり、記号そのものです。
10.1 我々はどうやって識別されるか
(1)名前は記号
銀行や郵便局で、用紙に記入した名前(氏名)が記入者本人のものであることを証明できる書類の提示を求められることがあります。多くの場合、図10.1の運転免許証、学生証、旅券や保険証などを見せて、本人と名前が1対1対応していることを証明します(最近は、住民基本台帳カードが公式の身分証明書となりつつあります)。
では何故、名前をなのるか書くだけでは本人と認められないのでしょうか。それは、名前はその人自身でなく、その人に代わってその人を表しているからです。これは、記号の本質に他ありません。名前は、それが指しているもの自体ではなく、それから離れている記号であるがゆえに、その記号とそれが表している人が1対1対応しているか確認する必要が出てくるのです。
クラスの中に同姓同名の人がいたり、また瓜二つの双子兄弟がいた場合、人物の識別というのは、そんなに簡単なものでは、ありません。シェークスピアにも『間違いの喜劇』という作品があるくらいですから。
1の記号が指す対象は、2の土地の識別名称という固定的な状態がかなり長期間保たれる記号と組み合わされることにより、対象者が唯一の人物であることの確実性を高めるようにしています(ただし、市町村合併が頻繁に行われる現代では、あまり固定的とは言えませんが)。1〜3から、識別コードは次のような二つの性質を持つ必要があることが分かります。
10.2 製品や部品の識別には二つのコードが必要である
図10.3のように瓜二つの双子の兄弟を、まれにではありますが見かけることがあります。この二人は同一の人物ではありませんから、区別しなければなりません。しかし第3者が両者を識別するのは、なかなか難しい課題になります。
製品の製造にも、同じような課題が生じます。たとえば、自動車の生産においては、同じ型の車が沢山製造されますが、在庫・販売・保守の情報管理のためには、個々の自動車を識別する必要があります。つまり、個体管理が必要となります。
個々のものを管理する必要がない少額の商品でも、ある期間ごとの生産物つまりロットの識別が必要とされます。識別という観点からは、ロット管理も個体管理も同じです。
一方、製品データ管理のためには、個々の自動車の母体となる型の情報も管理する必要があります。日本人の名前に例えれば、氏名の氏に該当する識別名称です。
型と個体の関係は、パースが提唱したタイプとトークンにあたるものであり、製品の識別名称を考える場合、図10.5のようにタイプとトークンという2つの識別名称の体系(コード)を決定する必要があります。
10.3 個体(トークン)の識別コードは簡単のほうが良い
(1)ユニークであることが要求される個体識別コード
メーカは製品に関する情報を製造中は勿論、出荷また販売された後も、保持する必要があります。新しい型の製品が商品化され、その製品の製造を終了したあとも、万が一の事故を考えると、長期間その情報を保管し、必要に応じて検索できるようにしておく必要があります。その検索のキーとなるのが、個体識別コードです。
しかし、これは大変なことです。同じ型の製品を1年間に10,000、2年間製造したとすると、20,000個のデータを、その耐用年数の間、保管する必要があります。それは新製品が出るたびに、累積していきます。
(2)トークンの識別コード
そのような多数のトークンを識別するためには、その識別コードは、どのようなルールに沿って定めればよいでしょう。次のような3つの規則は守るべきだです。
(3)個体識別コードの搭載媒体
個体識別コードが従うべき第3の条件の、識別コードとそれが指示する対象物とが1体1対応するすることを保証するもっとも確実なの方法は、識別コードとその対象物を一体化することです。もっとも広く使われているのが図10.7のバーコードです。最近では、2次元バードであるQRコードも広く使用されています。
バーコードやQRコードが印刷物であるのに対して、最近注目されているのがICチップを用いたICタグ(無線ICタグ)です。ICタグは、ICチップに識別番号や製品情報を記憶し、それを無線で読み出しを行うもので、日立が開発したミューチップは0.4mm角で128ビットのデータを格納できます。小型であり、それなりの情報を記憶でき非接触で読み出しできることから、広い用途が期待されています。全世界すべての情報をICタグで管理することを目的に、ICタグの標準化、識別コードや個体情報管理システムのあり方が、東大の坂村教授が中心となったユビキタスIDセンターや米国マサチューセッツ工科大学(MIT)が主導しているオートIDセンターで研究が進められています。
10.4 型(タイプ)識別コードの設定には範列、統語の知識が有用である
(1)型識別コードの構造
図10.8は、自家用自動車のナンバープレートです。多摩は、この車が多摩自動車登録検査事務所に登録されていること、500は、この車が2000cc以下の小型自動車であることを表しています。
ナンバープレートは個別識別コードつまりトークンですが、「多摩」、「500」は乗用車のあるクラスを表すタイプつまり型識別コードです。
個体識別コードが実質つまりものと直接結び付くのに対して、型識別コードは意味と結びつきます。では、この型識別コードはどのように設定していったら良いのでしょう。
ここでは、言語学の考えを借用し、図10.9に示すように、型識別コードは型識別コード素とその組合せ(統語体)で構成することにします。ナンバープレートの例では、「多摩」と「500」が型識別コード素になります。
(2)型識別コード素の選定
図10.8のナンバープレートの「多摩」は、全国の運輸局という集合つまり範列の一つの要素です。また「500」は排気量という範列の要素です。これから、型識別コード素の選定の方法として、まず視点を定め、その視点に沿って範列を設定していく方法が考えられます。
その視点をどのように検討すればよいのでしょう。少し突飛ですが、アリストテレスの存在の多義性が参考になると考えています。それは、実質(もの)の存在の仕方つまり捉え方を10の視点から整理したものです。
アリストテレスのものの存在の10の状態を表10.1に示します。少しでも、それを具体化したいと思い、図10.10の自転車の型識別コード素の範列を表の中に併記してみました。
| 存在の状態(アリストテレス) | 型識別コード素の例(自転車) | |
|---|---|---|
| 1 | いろいろな述語にとって主語となるもの(実体、本質) | 軽快車、マウンテンバイク、電動自転車 |
| 2 | それがどれだけあるか(量) | 車高、重量 |
| 3 | それがどのようなものであるか(性質) | 用途(買い物、スポーツ、旅行) |
| 4 | それが他のなにかに対してどうあるか(関係) | その車種の特徴(形状、フレーム部の材質、タイヤ、ギア) |
| 5 | それがどこにあるか(場所) | 走るのに適した場所(町、県・国道、山道) |
| 6 | それがいつあるか(時間) | 製造日、出荷日、点検日 |
| 7 | それが横たわっていること(姿勢) | 乗る人の姿勢 |
| 8 | それがなにをもってあるか(状態、所有) | 走行速度、走行に必要とされる力 |
| 9 | それのすること(能動) | 駆動部分の仕様(動力伝達部、変速部) |
| 10 | それのされること(受動) | 人との接点部分(ハンドル、サドル、ペダル)の仕様受動素子 |
では、ナンバープレートはどうでしょうか。‘多摩’は5の場所、‘500'は2の量の範列に属しています。
(3)型識別コードの統語規則
型識別コード素はどのように連結していけばよいのでしょう。型識別コードの統語規則として、特に決まったものはありませんが、オブジェクト指向やオントロジー工学で使われている、図10.11に示す概念の階層化方法が検討の手掛かりになります。
乗用車のナンバー・プレートの「多摩」は多摩自動車登録検査事務所に登録されている乗用車全体を意味し、「500」はその中での2000cc以下の車、「多摩」の部分集合です。これは、is a の関係になります。
製品や部品の識別コードは、自由に決められますが、その原則を明確にしておかないと、矛盾が出て来る場合もあります。また、いったん決められると、いろいろな部署でそれを共有するため、問題があってもなかなか変更ができないのが現実です。
記号論で提唱されている概念を用いて、識別コードを検討することにより、見通しの良い体系が確立できるのではないでしょうか。