「アメリカ合衆国が生んだ最も多才で、もっとも深遠なそして最も独創的な哲学者」といわれるチャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Pierce,1839-1914)は、ソシュールと同じような時期に記号論を創設し、多くの著作を残しました。パースは、哲学者であるとともに、論理学者、数学者、物理学者、化学者であり、ソシュールとは異なり、記号とそれが指し示す対象を記号を受け取った人がどのように関係づけるか、その「記号過程」に重点をおいて研究しました(米盛祐二『パースの記号学』)。パースは自然科学系の学者であり、記号と対象を結び付ける解釈項は推論であり、演繹、帰納、仮説推論といった数学的概念で分類しています。その記号論も、エンジニアである我々にはある種の親近感が持てるものがあります。
4.1 パースは記号を3要素モデルで表す
パース流の記号論では、「記号は、それ自身とは別の何かを表すものである」と定義されます。ソシュール流では「記号は、何かを意味するものである」であり、微妙に違います。では、別の何かを表すとは、どういうことなのでしょう。
夏の午後、入道雲を見たら、夕立や雷を想像するかもしれません。この場合、入道雲は夕立や雷という別のものを意味していることになります。医者が患者の症状や検査結果から症状を判定する、のもこれに該当します。私達も、自分の子供が咳をしていたり、熱があれば風邪と判断します。このような症状や検査結果を記号と取れば、それは、それ自身とは別のことを表しています。
その他にも、いろいろ例を挙げられます。第1章での湯沸しポットの水の温度が、次のような微分方程式で記述されたとします。
| dθ/dt=1/Cpot*{Q-kθ} | θ:水温(K) Q:入熱量(J/s) k:ポットから壁面への伝熱係数(J/sK) Cpot:ポットの熱容量(J/K) |
パースは、私達が認識する代表項、記号が意味する対象、両者を結ぶ解釈項で構成される3項モデルで、記号を定義しました。このモデルは、通常、図のような、三角形で表現されます。ソシュールの記号モデルの用語を使えば、代表項は記号表現、対象および解釈項が記号内容にあたります。代表項と対象の間が点線なのは、それらは直接、関連せず、解釈項を介して結ばれているからです。解釈項は、私達が記号を認識した時、それを対象に結び付ける思考方法です。記号を認識し、それから解釈項を介して、対象を想起していくプロセスを記号過程(semiosis)と言います。
4.2 記号は3つの型に分類できる
パースの記号論の特徴の一つは、記号および記号過程について、詳細な分類を行っていることです。しかし、それを追跡するのは非専門家(私も非専門家です)にとっては至難の業であり、このノートでは、記号論を応用しようとする人にとって有用と思われる考え方のみ紹介したいと思います。
(1)第1次性、第2次性、第3次性
パースは記号論に、存在一般の基本的な様式としての「第1次性(firstness)」、「第2次性(secondness)」、「第3次性(thirdness)」という考えを導入しています。
| 第1次性 記号それ自体の在り方 |
第2次性 対象との関係に おける記号 |
第3次性 解釈内容との関係に おける記号 (代表項と対象の 関連付け) |
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| 第1次 | 性質記号 | 類像記号 | 名 辞 |
| 第2次 | 個物記号 (トークン) | 指標記号 | 命 題 |
| 第3次 | 法則記号 (タイプ) | 象徴記号 | 論 証 |
(2)類像記号、指標記号、象徴記号
パースの記号分類で最も良く知られているのは、上の表で対象との関係における記号として位置付けられている類像記号(アイコン)、指標記号(インデックス)、象徴記号(シンボル)です。対象とある性質において何らかの点で似ているのが類似記号、記号が対象と事実的に連結しその対象から影響を受けるのが指標記号、対象と直接的な関係がなく慣例によって結び付けられるのが象徴記号です。ダニエル・チャンドラー『初心者のための記号論』の定義が分かりやすいので、以下に引用します。
![]() | 類像/類像的 (Icon/iconic):記号表現は、記号内容に似ているか、意味されているものを模倣しており(認識できる表情、音、感覚、味、それのような匂い)−そのものが持つある性質を同じように保持していると認められる態様:例えば、肖像画、風刺画、縮尺モデル、擬声、隠喩、(情景・物語などを描写する)標題音楽の‘現実感のある’音、ラジオドラマにおける効果音、吹き替え映画の台詞、物真似; |
![]() |
指標/指標的 (Index/indexial) :記号表現は、恣意的でなく、ある方法(物理的かまたは因果関係で)で記号内容と直接的に結ばれている様態 ―その結びつきは観察できるか推測できる−:例えば‘自然記号’(煙、雷、足跡、エコー、非人造的な匂いと味)、医学的な徴候(痛み、発疹、脈拍)、測定機器(風見鶏、温度計、時計、アルコール水準器)、‘信号’(ドアのノック、電話のベルの音)、指示器(人差し指、方向を指示する道標)、記録写真、映画、ビデオまたはテレビの場面、録音された音声)、個人的‘商標(トレードマーク)’(筆跡、標語)、そして指示語‘あの’、‘この’、‘ここ’、‘あそこ’); |
![]() |
象徴/象徴的 (Symbol/symbolic):記号表現は、記号内容に似ていず、原則的に恣意的であり、純粋に慣習的でありその関係は学習されなければならない様態(mode):例えば、言語一般(加えて特殊言語、アルファベット文字、句読点 、言葉、句、文)、数、モールス信号、交通信号、国旗。 |
実際の記号は、これら3種類の記号が複合化したものです。天気図の日本列島は類像記号、台風の気圧や移動速度を示す数値は指標記号、台風の記号は象徴記号です。記号がどのような種類の記号により構成するか明確に認識することで、記号の対象つまり意味をより詳細に分析できると思います。
(3)法則記号(タイプ)と個別記号(トークン)
記号の3分法の第1次性の性質記号、個別記号、法則記号のうち、法則記号はタイプ、個別記号はトークンとも呼ばれますが、エンジニアにとっても、なかなか有用な考え方です。タイプはソシュールのラング、トークンはパロールにあたります。ソシュールがラングを重視したのに対して、私達の前に現れるのはパロールつまりトークンですので、パースは個別記号(トークン)に明確な位置を与えました。
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4.3 パースの記号論は記号過程を重視する
類像記号や指標記号と異なり、象徴記号は対象と直接的な関係はなく、それらの結び付けは推論により行われます。それが、記号の3分表にある論証です。
パースは、論証の型として、演繹、帰納、仮説推論を挙げています。演繹、帰納については、数学で習っていると思いますので、最近、「発見の方法」として取り上げられることが多い仮説推論(アブダクションabduction)を簡単に説明します。
『シャーロック・ホームズの記号論』という本で、『四つの署名』の中の次のようなホームズとワトソンの会話が取り上げられています。
4.4 動物記号論から生命記号論へ(シービオクからホフマイヤーへ)
シービオクは、パースの記号論をベースに、人間だけでなく動物さらに生命体にも、記号現象を見出しました。彼は、図のようなさまざまなものから記号が発信されているとしました。例えば、動物の求愛行動、危険を知らせる鳴き声・行動、自分の支配領域を境界づけるフンや分泌物も、動物間でコミュニケーションを行うための記号と捉えることができます。さらに、植物と動物、例えば花と蜜蜂の関係なども記号過程と捉えられ、私達を取り巻く自然環境も記号という視点から捉えなおすことが可能となります。
ホフマイヤーは、さらに視野を広げ、地球は生物圏と記号圏から構成されるとする生命記号論を提案しています。ここで、生物圏とは物質・エネルギーの流れや物質間の化学反応などの物理化学的現象から成る物質的世界であり、記号圏は生物圏を構成する要素間のコミュニケーションつまり信号と意味の世界です。生命記号論は、この2つの世界の相互作用を記号過程また記号双対性という概念でモデル化していきます。例えば、遺伝を‘系統としての生物が所定の状態の下で生き残るという目的のため蓄えた経験を子孫に伝えるための様式つまり記号過程’と捉え、パースの3項モデルで表現します。以下は、「生命記号論」からの抜粋です。
その他、生命記号論では進化、心と身体の相互作用などを論じています。生命記号論についてはいろいろ議論したい点がありますが、生命現象をアナログ系とデジタル系の複合システムとしてモデル化しようとしている点と生物学という自然科学に意味を取り込もうとしている点には興味を覚えました。