記号という考えは、ヨーロッパではスイス生まれの言語学者でありジュネーブ大学教授であったフェルデナン・ド・ソシュール(1857-1913)、アメリカで哲学者、論理学者、数学者、物理学者、化学者であるチャールズ・サンダース・パース(1839-1914)によって、それぞれ独立に提案されました。不幸なことに、両者は統一されることはなく、ソシュールの提案した記号に関する学問は記号学(semiology)と呼ばれ、パースの系統は記号論(semiotics)と呼ばれることが多かったのですが、最近は記号論という名称に統一されつつあるようです。また、記号論を使う人は、両者をうまく併用しているようにも思われます。『初心者のための記号論』に倣って、このノートでも記号論という名称を使います。
3.1 ソシュールは記号を2要素モデルで表す
(1)記号の要素は表現と内容
言語学者のソシュールは、なにかを意味しているものを記号(sign)と名づけました。言葉も記号の一種で言語記号と呼ばれています。ソシュールは、その2要素モデルを次のように定義しました。
記号表現は我々の五感、特に視覚と聴覚で感じられるものや心の中で思い浮かべる具体的な表現です。前者は物質でできています。
記号内容はそれが表す概念ですが、概念は「‥‥とは何か」ということについての受け取り方(新明解国語辞典)ですので、記号を受け取った人また記号を発信する人にとっての意味となります。では意味とはと改めて聞かれると、答えに窮しますが、言語学の入門書に倣って、言葉の意味を「それが指示する(現実世界およびそれ以外の世界の)モノゴトの集合の性質」と定義します。ただし、現実世界(=物質世界)以外の世界(=認識世界)のモノゴトも含むことに注意してください。
記号表現と記号表現は紙の表と裏のように切り離せない関係にあり、記号内容のない記号表現はなく、記号表現のない記号内容は存在しません(ただ、これは原則であり、情報システムでは‘内容がない表現’=データを扱うことになりますが、これは別のテクストで検討したいと思っています)。
情報の世界では、往々にしてインターネット上の配信サービスなどでコンテンツという言葉を使います。コンテンツは内容ですが、記号論の立場に立てば、この場合のコンテンツは記号表現の集合つまりテクストであって記号内容ではありません。記号内容は、記号表現によって我々に生ずる意味です。
記号表現の例として、駐車禁止の標識を示します。これが道路の脇に立っているのは見れば、ここでは5分以上車を止めていけないだなと思います。これが、記号内容です。記号内容は明示的には示されていませんし、また物質的なものではありません。あくまで、心の中に浮かんでくることです。
(2)記号はコミュニケーションの道具
ではなぜ、人間は記号特に言葉を使うようになったのでしょう。それは、話し手と聞き手の間で意味を伝達するためです。図3.3はソシュールが示した意味の伝達経路です。話す人は、伝えたい概念つまり意味から言葉を思い浮かべ、それを音として相手に伝えます。聞き手は、その音を聞き、それから意味を心の中に思い浮かべ、相手の言うことを理解していきます。この過程を相互に繰り返し、コミュニケーションしていきます。 しかし、この経路が成立するための前提は、一つ一つの言葉の意味と言葉の間のつながりが二人の間で共用されていることです。それをまとめてコードと言います。
コンピュータ同士の通信、例えばEメールではこの通信のための規則(コード)が完全に一致していなければなりません。発信PC、受信PCが同じ規則(プロトコル、コード)に従って、データ変換を行うので、PC:Aから送ったメールがPC:Bで再現されるのです。情報理論で扱う情報伝達は、左の図のような伝達モデルです。そこでは、意味は伝送経路の中には含めず、コンテンツつまり記号表現を如何に正確にまた高速に伝送・処理するかが主な課題になります。
ソシュールは、言語は自然現象ではなく、政治システム、司法制度や社会のいろいろな慣習と同じように、人間が作り上げたものとであるとしてその分析を行いました。そういう立場に立つと、それがどのような仕組みで機能しているか、言語および記号の仕組みつまり体系が検討の焦点となります。
(1)日本語を話す人は同じ「ラング」を共有
我々は、会話をするとき、相手の話すことを聞いて、言いたいことを理解していきます。相手の人が高い声または低い声で話しても、また早口でまたはゆっくりと話しても、多少方言が混ざっていても理解できます。当たり前のことですが、これはなかなか不思議なことです。
ソシュールはこの仕組みを解明することが言語学の目指すものだとしました。高い声でも低い声でも「mizu」と発音したら「みず→水」をイメージし、言わんとするところを理解する仕組みを言語「ラング」と名づけました。日本語を話し理解する人は、日本語というラングを共有しています。一方、実際に発音したり、書くことにより産み出した具体的な言葉や文章つまり私達が聴覚や視覚で知ることのできるもののまとまりを、パロールと呼びました。
言語学の入門書にあったものですが、広く普及していて誰でも持っているプログラム、例えばメールソフトはラングに、それで作られ、送られたメールがパロールに相当します。これはあくまで例えですが、なんとなく分かる感じがします。
日本語の話し手である私たちは、日本語のラング(文法や語彙の知識)を活用しながら、具体的な文(パロール)を作り出していきます。
パロールとラングを区別するという考えに従えば、日本語の研究は、日本語のパロールから得られる具体的な文をデータにして、それらの文の組立てに見られる体系性、規則性(つまりラング)とその使い方を見出して、日本語の話し手がどのようにして文を作り、あるいは話しを組み立てて、お互いのあいだでコミュニケーションを行っているか、その仕組みを明らかにする研究であるといえます(『言語』(第2版)より引用)。
ソシュール流の記号論では、記号も言語と同様、人工的なもの、社会システムの産物と見なします。その記号表現の集合であるテクストをパロール、構造やコードをラングに対応させたアプローチ方法がソシュール流の記号論的分析方法です。言語モデルという用語がよく出てきます。
パロールである現象データや検討対象に関する資料から、それを規定しているラングつまり構造を見出そうとする方向は、システム分析を専門とする私にとっては、共感できますし、多くの工学者にとっても同感できるのではないかと思っています。しかし、データからその裏に潜む構造を見出すのは、容易なことではありません。
では、パロールは重要ではないのでしょうか。とんでもありません。現在のように、インターネットを使って、記号を広く発信できる時代には、意味をどのように記号に表現させるかつまりパロール自身の表現力が重要になってきます。つまり、ソシュールの2要素モデルの記号内容から記号表現に向かう矢印つまり記号過程が重視されるべきだと思います。ただ、これは分析の逆、シンセシスつまり逆問題であり、記号論的分析よりさらに難しくなるのは、工学の逆問題に関する全く同様です。しかし、そこに大きな研究課題があるのではないでしょうか。
(2)恣意的である記号表現と記号内容の関係
ソシュールにより提示された記号に関するもう一つの重要な特性が、記号表現と記号内容の間には必然的、本質的、直接的な関係はないということです。よく出てくる例ですが、水(記号内容)を日本語ではmizu(記号表現)と呼びますが、英語の記号表現では水もお湯もwaterです。このように言語が変わると、同じ意味でもその表現は変わってきます。これを、記号の恣意性(arbitarity)と言います。
では、記号特に言語記号が恣意的であるとすると、何か良いことがあるのでしょうか。例えば、次のようなことが考えられます。
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