1 我々は記号の世界に生きている
1.1 記号とはなにか
この写真は、我が家の愛犬なつです。なつを散歩させていると、よく2〜3才の幼児と出会いますが、必ずと言って良いほど、なつを指して「わんわん」と言います。それを聞くと、「ああ、この子はなつに興味を持ち、触ってみたいのか」などと思います。一方、家のベランダでなつが「ワンワン」と鳴くと、遊んで欲しいのかなどと思います。当事者にとって、「わんわん」も「ワンワン」も、ただ単なる音の羅列ではなく、なにか意味を持つと感じられます。このように、当事者にイメージを引き起こし、何か意味を持っていると考えさせる表現を、記号論では記号として、検討の対象にします。
新明解国語辞典(三省堂)では、記号について次のように記しています。
記号:その社会で意志伝達のために使われるしるしの総称
しるし:抽象的な概念を現す約束として決めた具体的な形のあるもの、符号・紋・記章・合図など
この定義のキーワードは、意志伝達(コミュニケーション)、しるし、約束だと思います。記号論では、これらをもう少し広げます。つまり、意志伝達については、それとともに人間に何かイメージを引き起こす現象、しるしについては何かを表現しているもの、さらに約束については明示的なものに限定せず、その社会の中で暗黙のうちに認められており特に意識されない隠された慣習にまで広げて捉えることにします。これにより、記号論のカバーする範囲は格段に広がりますが、反面、記号は漠然としたものになり、記号論は分かりにくいものと成ります。
では、記号および記号の集合であるテクストの例をいくつ挙げてみましょう。まず、話す言葉や書く言葉です。ソシュールは言語学者であり、言葉に中心として、記号論を提示しました。逆に、言語学は、ソシュールの考えに影響を受け、大きく変わったと町田健の『ソシュール入門』に書いてあります。このような言葉の集合である本も、何かを表現していますので記号、記号の集合であるテクストとして捉えられます。このような解説書だけでなく、ノンフィクション、小説などあらゆる種類の本がテクストとして記号論の分析対象となります。設計書や製品の取り扱い説明書などもこれに含まれます。
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我々の周りには、我々の行動を指示したり、なにかを分かりやすく知らせたりする記号が沢山あります。その代表的なものが、交通信号です。青、黄色、赤はそれぞれ進め、注意、停止を意味します。また、スポーツ大会などでよく使われるその会場で行われる種目を表す図記号なども代表的な記号です。この指示記号で特徴的なのが、それがなにを意味するかが明確に規定され、それを見る人がそれに従うことです。記号の意味することを規定するものを記号論ではコードと言います。記号論を用いた分析が目指すものの一つが、いろいろなテクストに潜むコードを明確にすることです。
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次は、情報を図解したものです。その5は山手線の路線図であり、一つのボックスが駅、それを結ぶ線は線路を表しています。しかし、それは実在するものを忠実に表現したものではなく、抽象化つまり記号化しているところに特徴があります。路線図は記号の集合つまりテクストであり、それ自体いろいろなこと、たとえば山手線の主要な駅の位置を位相的に表現した記号です。また、天気図も記号であり、テクストです。天気予報のウエブ・サイトで衛星画像を見れば分かるように、等圧線、前線や高気圧は見えません(台風は、台風の目と雲が見えるのでその位置が分かりますが)。つまり、天気図は色々な地点での測定値を基に作成した記号(テクスト)と言えます。同様に、5万分の1の地形図なども同じ分野に属します。
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写真は我々の周辺にある実在の複製ではありません。対象は、周りの環境を含めて、その時間とともに変化していきます。写真は、ある一瞬の時点の対象を、ある視点や距離から平面に写像したもので、それには撮影する人の意図が込められています。写真も何かを表現したものとも言えます。記号論も写真を記号として、その性質を論じています。また、デジタルカメラでは、画像の編集は柔軟に行えますので、ますます表現物としての性格を強めているように思えます。では絵画はどうでしょうか?風景画や人物画などの具象画も、何らか意味を表すために対象から得られたイメージを絵にしているのです。それは、勿論、何かを表現しているものあり記号です。
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表現が意味を持つものとして、記号論でよく取り上げるものに服装があります。企業での服装は、間接部門(設計、研究等)では最近、かなり自由になりましたが、少し前までは制限がありましたし、営業部門の人はスーツが普通です。また、テレビなどで宣伝している就職活動用の洋服などを見ると、明示されていませんが何らかのの規定があるのは明らかです。‘人は記号を着て歩いている’とはよく言われることです。このテクストはエンジニアのための入門ノートですので、もう一つの例として、数式を挙げておきました。数式は純粋に論理的なものだと思うかもしれませんが、それを使う人にとっては何らかの現象を表現しています。例えば、拡散方程式は、使われる状況によって物質の拡散や熱の拡散、いろいろな意味を持ってきます。パースは数式を記号の一つとして、取り上げています。
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その他、身振りや顔の表情も記号ですし、料理を記号と見なす人もいます。また、これまで示したような色々な記号により構成される情報も、当然記号と見なすことができます。このような書くとと、我々が見聞きするものは、なんでも記号ではないかと苦情が出そうですが、そうです、なんでも記号なんです。『初心者のための記号論』の著者のダニエル・チャンドラーが言っているように、我々は‘意味を作る欲望に動かされている種、ホモシニフィキャンズ'なんです。しかも、その記号は、我々が気付かないなにものかによってその役割や意味が規定されています。記号論は、そのような記号を注意深く考察していくための方法論を提供します。
1.2 記号論ではなにを検討するか
実験や現象の観察を行って、多くのデータを得た場合、そのデータへの接近法は2つあると思います。まず、何らかの視点で関係付けられるデータの集合に分類し、カテゴリー化し、現象を支配する法則を見出していく方法です。いわゆる、ボトムアップ接近法です。もう一つは、データの変化を説明できる理論(仮説)を立て、それをデータにより検証していく方法です。どちらかというと、記号論は後者であり、色々な分野の記号の性質を横断的に説明できる(または考えることができる)概念を提示しています。ただ、記号論の対象は(工学で扱う人工物や人工的現象を含めて)自然現象ではなく、(人間が関与する)社会現象ですので、その概念を論理的または実験的に証明することが非常に難しい領域です。その点、エンジニアは非常に物足りないものを感じるでしょうが、個人的には、人間が関与した現象を分析する人文的方法論だと割り切って勉強した方が、ハードルが低いように思っています。また工学でも、そのような人間が関与した分野の課題は、今後、増えてくると予想しています。
20世紀の初めにソシュールとパースにより、‘何かを意味していると考えられる表現は記号である’または‘記号は、それ自身とは別の何かを表すものである’という基本的な概念が提示されました。ソシュールは、記号の2要素モデルを提案し、記号>は記号表現(シニフィアン)、記号内容(シニフィエ)で構成されると定義しました(定義という言葉に注目してください)。記号表現は我々の五感を通して感じられるものでありつまり形(例えば音声や文字)、記号内容はそれが我々の中に引き起こす概念(意味)です。ソシュールは、記号は記号表現と記号内容の複合体と考えました。パースは3項モデルを提案しましたが、これについては後の章で説明します。
記号はその発信者の意図である記号内容をストレートに表現しているとは限らないのは、テレビでのコマーシャルを見ればすぐ分かります。自動車の宣伝はその車の性能を直接PRすることは殆どなく、イメージで性能、安全性、環境への貢献を我々の中に連想させます。また、存在しないことにより価値があるという、不思議な記号もあります。例えば、テレビに出ないことにより、その存在感を高めている歌手などです。記号論は、この記号のなかなか不思議な性質を、左の図に示すように明らかにしようとするものです。その記号が何を意味するかを、それが使われている状況つまり文脈を把握し、意味しようとしていること、そのために使われている表現上の技術またその意味を表すためにそれが利用している規則つまりコードを明らかにしていきます。それにより、その記号が真に意味していることを把握しようとするものです。つまり、記号論は記号を拡大して見るためのルーペと言えます。
こじつけになりますが、記号を次のように表すとします。
では、記号について何を検討するのでしょうか?このノートの基礎となっている『初心者のための記号論』の内容を次のように2つのグループに分けておくと、記号論へ取り掛かりやすくなるのではと思っています。3〜9本ノートの章番号です。
この方向に沿って、説明を進めていきます。