2006年2月8日の朝日新聞に、次期学習指導要領の基本理念を「言葉の力」にするという記事がありました。また朝日新聞の最近の広告では、「言葉のチカラ」を強調しています。学習指導要領は、多分言葉に関する知識を増やし、言葉を使う能力を磨くということを言っているのかと思います。また、「言葉のチカラ」に関しては、批判もあるようですが、私は無邪気に、言葉に「力」があると信じています。我々は、言葉により考え(記号論では、言葉は考えを表現する道具ではなく、考えるベースであると捉えます)、それを話言葉や書き言葉で表現します。言葉の力により、技術が生まれまた伝承できたのではないでしょうか。
では何故、言葉には力があるのでしょうか。言葉がそれを受ける人の主観に訴え、なにかを表現また意味していると思わせるからではないでしょうか。セールスマンのAさんと顧客Bさんが乗用車の売買の話をしているとします。Aさんから、車種と価格が提示されました。Bさんは、それを聞き、車に自分が乗っているイメージを思い浮かべ、また購入できるかどうかまた自分の経済状態を判断し、何らかの反応(もう少し、安くならないかなど)また行動をおこしていきます。Aさんの言葉は、Bさんにとっては乗用車と価格を表現し、それは意味を持つことになります。一方、表現方法は言葉だけではありませんので、Aさんはカタログやパソコンを使って、Bさんにアピールするかもしれません。その場合、映像や音声も乗用車の属性を表現するものとなり、Bさんの主観に訴えてきます。言葉だけでなく絵画、映像や音楽など、人間にとって何かを表現しまた意味していると思わせるものを統一的に記号として捉え、その記号の表現と意味の関係を研究する学問、記号学また記号論をソシュール(1857〜1913)とパース(1839〜1914)が、ヨーロッパとアメリカでそれぞれ独立に20世紀初めに提唱しました。ただ、おなじ系統の学問に二つの名前があるのも混乱の元になりますので、本書では「初心者のための記号論」に従がって、記号論に統一します。
ソシュールは著名な言語学者であったこともあり、彼は記号の体系(システム)を重視し、その体系の構造を明らかにすることやその体系の中での記号の位置付けを重視しました。ソシュール流の記号論は構造主義へと発展し、主に人文系統の学問でテクスト分析の方法として用いられてきました(テクストについては、後で検討します)。エンジニアにとってはちょっと関心が薄いかもしれませんが、フランスの人類学者、C・レヴィ=ストロースが1940〜60年代の書いた「親族の基本構造」を始めとする多くのの著作は影響が大きく、構造主義に関する関心が高まりました。日本でも、1980年代に、構造主義の本がいろいろ出版されています。一方、パースは、哲学者、論理学者、数学者、天文学者、化学者、測量技師、エンジニア‥‥であり、人間の認識と推論に着目し、記号論を創始しました。彼は、記号の存在様式(1次性、2次性、3次性)や記号のタイプ(類像記号、指標記号、象徴記号)など、記号自体に関する新しい考え方を提示しました。パースが自然科学系統の学者であったためか、その考えは理工学と相性がよく、生命記号論などで用いられています。私はシステム(体系)とその構造に興味がありますので、「初心者のための記号論」と同じく、ソシュール流の記号論に重きをおいた立場をとります。オブジェクト指向技術や推論に興味のある人は、パースの記号論を更に勉強されたら良いと思います。
表現とその意味の関係を探求する記号論は、主に人文科学系統で用いられていますが、工学とは縁がないものなのでしょうか。新製品を開発する場合を想定してみましょう。例えば、左の図のような新しい紙飛行機を作るとします。最初は、具体的な紙飛行機はないのですから、何らかの形でそれを表現しなければなりません。それは、目標とする性能であり、また図にあるようなスケッチかもしれません。一度、開発ターゲットが表現されれば、それをベースに表現はより具体的になり、最終的にはそのものの実現や性能の確認に結び付いていきます。新しいデバイス、機器、装置やシステムの開発では、ある段階まで開発ターゲットは現実には存在せず、あるのは思考の中のイメージだけです。それを、仕様書、図面、2次元や3次元のモデルなどで表現し、開発を具体化していきます。それらの表現は開発メンバーにとってターゲット(つまり、表現の意味)を共用できるものである必要があります。そのように意味が明確に伝わる記号を、記号論では、様相(モダリティ)の高い記号と言います。開発ターゲットが大規模であればあるほど、そこで使われる表現は、重要になってきます。「初心者のための記号論」にテクストやメッセージの内容(コンテンツ)は意味ではないという言葉が出てきますが、いくら資料を作成しても、それが開発メンバーにとって作成者の意図が伝わるものでなければ、価値がありません。
工学分野での意味と表現の関係を簡単に表すと、下の図のようになるのではないでしょうか。上の部分は、意味つまり開発や設計のターゲットがまずあり、それを設計書、図面や3次元モデルなどで具体的に表現していく方向であり、開発の過程を表しています。下の部分はその逆です。つまり、まず設計書や図面や実際の機器があり、それからそのものの意味を解き明かしていく過程です。例えば、建物の設計図からその耐震強度を評価することなどががこれに含まれます。解析や分析、そのためのデータ抽出やモデルリングがこれに対応するものです。このように、製品の開発や設計またその評価にとって、表現と意味の関係は大切なものだと思っています。
また、情報系のエンジニアにとっては、表現と意味の関係はより深刻な問題です。我々が、色々な媒体(インターネット、TV、ラジオなど)で見聞きする情報は、何かを表現していますが、それの意味を読み取るのは受信者である我々です。やっかいなことに、その情報は必ずしも物事をそのまま伝えることはなく、発信者によって(多かれ、少なかれ)歪められています。2003年のイラク戦争、2006年のライブドア事件、民主党の偽メールなど虚偽の情報にも事欠きません。情報処理学会誌「情報処理」に掲載される論文は、データをいかに高速にまた効率的に伝送・処理・表現する技術が主流のように思えますが、エンジニアも表現と意味という課題に取り組む時期に来ているように思えてなりません。
さて、本書は英国のウエールズ大学のチャンドラー教授(Daniel Chandler)の『初心者のための記号論』への、エンジニア(特に、情報工学、システム工学、制御工学系統)のための入門書を目指しています。ただエンジニアの殆どは、実利主義者であり、その理論や方法が自分の専門門分野に役立つと思わなければ、興味を持ちません。「初心者のための記号論」は非常に良い教科書だと思うのですが、それぞれの章のテーマがどのように位置付けられるのかまたそれらがテクスト(対象)の分析にどのように使えるかは、最後まで読まないと整理できないのないかではと感じました。そこで構成を変えて、内容を次のように4つにグループ分けし記号論の色々な考えの位置づけが分かるようにします。また『初心者のための記号論』の内容をエンジニアの言葉で説明することにより、記号論で言わんとすることや工学への応用にあたっての問題点が具体的なイメージとして把握できるようにしたいと考えています。
本書では、独りよがりで浅い説明または記号論の用語の工学的な言葉への単なる置き換えしかできないかもしれませんが、これを読んで記号論へ挑戦しようと思うエンジニアが現れたら望外の幸せです。