ACT.2 ゼロアワー マイナス45時間52分


 新桜花総合病院の地下アジト。対マザー攻撃用ウィルスの完成を急ぐ村上竜三(むらかみ・りゅうぞう)宮川みづき(みやかわ・みづき)、それに新桜花総合病院の院長・坂井の3人の元に、倉瀬や秋間たちがSDを引き連れて訪れたのは、マザーからの退避勧告が送られてきてから約2時間ほどたった午前2時のことであった。
 「村上博士、話がある」
 一同を代表して、倉瀬が口を開く。
 「何かね?」
 「マザーに対するウィルス攻撃を考え直してほしい」
 「……」
 それは村上が予想してた通りの言葉であった。
 マザーを破壊するということは、その中にあるSDたちの人格・記憶プログラムの消滅も意味している。回復はまず見込めない。いわゆるSDの『死』の一つの形と言えた。それだけは何としても避けたいというのが、彼らの本音なのだろう。
 気持ちは分かる。だが、村上もおいそれとそれに同意するわけにはいかなかった。
 「考え直すのはいいが」村上が一行に尋ね返す。「このままマザーの暴走を許しておくわけにもいかん。このままだと明日の深夜には新桜花市はマザーに乗っ取られてしまうのだからな」
 市の主導権をマザーに明け渡すということは、それはすなわち、企業や町の運営に人間はいらないという口実をコンピュータに与えることである。その口実をもとに、もし世界中のコンピュータが人間をいらないと言い出したらどうなるか?
 おそらく、いま新桜花市で起きていることが全世界規模で起きることになるに違いない。
 「コンピュータに人間の常識は通用しない」村上は厳しい口調で言う。「もしコンピュータが人間はこの社会にとって邪魔だ、ひとり残らず殺してしまえと判断してしまったらどうする?」
 軍のコンピュータを乗っ取って核ミサイルを発射させる程度のことなら、マザークラスのコンピュータであれば簡単にやってのけるだろう。ミサイルの目標を原子力発電所に設定しておけば、わざわざ都市を破壊せずとも大量にばら撒かれた放射性物質が数年で人間たちを滅ぼしてくれる。コンピュータにとって人間の殲滅は造作もないことなのだ。
 「だから、なんとしてもここでマザーの、コンピュータの反乱を食い止めなければならないのだ」
 しかし、この村上の返答も、倉瀬の予想どおりのものだった。
 「無論それは承知している。だから、私はウィルス攻撃に代わる代案を提示したい」
 「ほう?」
 興味深げに村上が倉瀬を見る。倉瀬はかすかに笑みを浮かべると、自らが考え出した事態収拾の方法について説明をはじめた。
 「確かにマザーの破壊は極めて有効な手段だと私も思う。だが、それに伴う犠牲も相当大きいものだ」
 それは単にマザーという高価なコンピュータを失うということだけではない。水道・電気等の都市インフラから住民のカード決済まですべてがマザーの手によって運営されている新桜花市にとって、マザーの機能停止はまさに致命的な打撃となるであろう。マザー破壊後に一から立て直すという考えもあるが、それには莫大な費用と時間がかかる。できることなら、そのような損失は避けたい。
 「そこで、私はマザーを破壊する代わりの方法を考えた」
 「フム、話してみたまえ」村上が促す。
 「マザーのプログラムに新たな命題―『人間への奉仕』を付け加える。なしのたちにも搭載されている『奉仕プログラム』、あれをマザーにも組み込めることができたら、あるいは一時的にもマザーの暴走は止まるのではないだろうか?」
 マザーの暴走の原因は、『Meグループ社の発展』『新桜花市の維持・管理』という二つの命題を忠実に果たそうとしたところにある。与えられた命題を最も効率的な方法で果たそうとシミュレーションを繰り返した結果、人間たちの必要性を最低ランクに位置づけてしまったのだ。
 ならば、それら命題を加筆あるいは訂正することができたら、あるいはこのトラブルを収束することができるのではないか―倉瀬はそう考えていた。実際、奉仕プログラムを組み込まれているSDは、人間の必要性をトップレベルと認識しているのだ。
 「なるほど……しかしその案には問題があるな」と、村上。「マザーへの命題を加筆修正するのはいいとして、誰がどうやってそれを行うのかね?」
 「Meグループ社に直接乗り込み、マザーの制御室からそれを実行しようと考えている」
 倉瀬が村上に答える。
 「外部からハッキングするよりは確実だ。それに……」
 「事はそう簡単ではない」
 村上は倉瀬の言葉を遮ると、ため息をついた。
 「君たちはマザーやディジタルウェブについて無知だからそんな簡単に言えるのだ。マザーを構成するプログラム群は複雑怪奇で、とてもじゃないが君たちのような素人に扱えるような代物じゃない」
 マザーのプログラムは多くの高度な知識をもつ技術者によって造られている。村上もマザーの立ち上げに関わった者の一人だが、彼が携わったのはSDの思考プログラムの取りまとめなど、マザー全体のほんの一部分に過ぎない。さらにマザーには自己教育能力も備えられている。高度に進化したマザーのプログラム群を完全に把握できる者は、恐らく人間のなかにはいないだろう。
 「はっきり言えば、私でも無理だ。命題の書き換えには数十人の優秀なスタッフと半年近い時間が必要だろう」
 「そんな……」倉瀬が絶句する。
 「まあ、もしMeグループ社に侵入するなら、マザー本体に火炎瓶でも投げつけたほうがよっぽど効果がある」村上が続ける。「あるいは電気回線を破壊してマザーそのものを止めてしまうとか……いずれにしても、君のいう方法ではマザーの暴走を押さえ込める見込みは薄い」
 「……どうする、倉瀬さん」
 下田が聞く。「このままだと鬼杏たちの人格が消えてしまう。何か別の方法はないのか?」
 しかし、倉瀬もさすがに妙案は思いつかなかった。マザーのプログラムの複雑怪奇さが、自分の想像していたよりもはるかに驚異的だとはさすがの倉瀬も思い至らなかったのだ。まさか村上博士をもってしても不可能事だとは! コンピュータに対して無知だったといえばそれまでだが、迂闊だったことには変わりなかった。
 「……何か、何か別の方法はないのか?……」
 苦悩する倉瀬。それを見ていたなしのが、彼女の肩をぽんと叩く。
 「クラウゼル」
 なしのの顔には覚悟と諦めがない交ぜになった表現しがたい表情が浮かんでいる。それを見上げた倉瀬の脳裏に、かすかな不安感がよぎった。
 「……なんだ?」
 「もうよい。わたしも覚悟を決めた」なしのは静かな口調でそういうと、目を閉じた。「もはやどうにもならないみたいだ。クラウゼルがわたしのことを思ってくれるのは嬉しいが、このままではそなたの身も危ない」
 なしのの静かすぎる口調に、不安が高まる。
 「何が言いたい?」
 「マザーはわたしたちのコントロールを取り戻そうと今も干渉を続けている。われらを手駒にしようと考えているのであろな。だから、やつの目論見をこちらから打ち砕いてやろうと思う」
 「……どうやって?」
 「わたしを初めとするSDのすべてのデータを自ら消去する」
 なしのはそう答えると、他のSDたちの方を振り向いた。彼女たちも覚悟を決めた表情を浮かべている。
 「そうすれば、マザーにとっては大きな損失になるし、わたしたちSDを手駒にしようというマザーの計画も台無しにすることができる。それに何より、クラウゼルたちもわたしたちに構うことなく安全なところに避難することができるであろ」
 「ふざけるなっ!」
 それは、あまり感情を前面に表さない倉瀬にとって、珍しいほどの激しい感情の爆発だった。
 「私がここに留まっているのは、SDのデータを守るためだ。『おまえがおまえであり続ける』ために、私はここにいるのだ。こちらから勝負を捨てることは、私が許さない!」
 「しかし、このままではわたしもクラウゼルもマザーの無人兵器の標的になってしまうのだぞ!」なしのも負けじと言い返す。「わたしにとってマスターの身の安全は最も重要なことだ。それが守れないのであれば、いっそ破壊されてしまった方が遥かにマシだ!」
 にらみ合う二人。それを黙って眺めていた村上は、皮肉な笑みを口元に浮かべた。
 「まったく、私も随分と難儀なものを造ってしまったものだな」
 「……博士?」
 宮川が怪訝な表情をする。村上は肩をすくめて見せると、一行に向き直った。
 「用が終わったのなら、はやくこの部屋を出て行ってくれたまえ。私は忙しいのだ」
 「な……」
 高圧的な物言いに、さすがにカチンとくる一行。しかし、そんな一行の様子には目もくれず、村上は続ける。
 「さっきも言ったとおり、君たちの方法ではマザーたちに人間の必要性を納得させるには時間がかかるのだ。タイムリミットまで45時間を切っているのに、そんな悠長なことをしていられるか?」
 「博士……口の利き方には気をつけてほしい」怒りに満ちた表情の下田が両の拳を握り締める。「やろうと思えば力ずくであなたを止めることもできるんですよ」
 「い、いけませんマスター!」「ここで暴れるのは得策ではないであろ!」
 今にも村上に殴りかかっていきそうな下田を、鬼杏となしのが必死に押さえつける。その様子を横目になにやら考え込んでいた倉瀬は、やがて村上に向き直ると今一度確認するかのように尋ね返した。
 「私が考えた方法では、マザーに人間の必要性を納得させるのに時間がかかりすぎると、博士はそう言いたいのだな」
 そうだ、という村上の答えを聞き、倉瀬はまたしばし考え込む。
 「……では次の質問だ。私たち人間がマザーとコミュニケーションをとるとしたら、どうすればいい?」
 「簡単なことだ」と、村上。「制御室まで行ってマザーに話しかければいい。マザーにはSDと同等の自然言語エンジンが組み込まれているし、擬似人格も備えているから、SDたちと同じように会話を交わすことが可能だ」
 「それだけ分かれば十分だ!」倉瀬の顔に自信に満ちた表情が蘇る。「ありがとう、博士」
 「礼を言われるようなことは、何もしていないがね」
 「おい、何が分かったんだ?」
 そんな二人のやりとりを聞いていた下田が、訳が分からないといった風で倉瀬に尋ねる。倉瀬は彼のほうを見ると、ニヤリと笑ってこう答えた。
 「マザーを無傷で止める方法が分かったのさ……」

 

 「ただいまー!」
 秋間とリュスカが、臨時の作戦会議室となった食堂に入ってくる。
 「はい、頼まれた新桜花市の都市計画図のコピーをもらってきたわ」
 部屋の中央に並べられたテーブルの上に数枚のコピー用紙を広げる。それは、新桜花市の地下に広がる通信ケーブル網とそのメンテナンス用通路の詳細な地図であった。これを入手する様に倉瀬に頼まれた二人は、一旦地上に戻って市役所まで出向いていたのだ。
 「地上の様子はどうだった?」
 「どうもこうもないわ」
 倉瀬の問いに、秋間は渋い顔をした。
 「街のあちこちで無人戦車が走り回っているわ、空には無人ヘリが飛び回ってるわで大変だったわ。それに帰りにちょっとMeグループ社の方によってみたんだけどさ、10台近い戦車でがっちりガードされていたわよ」
 「そうか、やはりな……」
 「正面切って相手するのは絶っ対に無理ね」
 肩をすくめて首を横に振る秋間。
 「それにしても、こんな早朝だというのによく職員の協力を取り付けられたな」
 「マザーの反乱と停電で混乱していたから、どさくさにまぎれて拝借してきたのよ」
 「……それって普通窃盗といわないか?」
 下田がジト目で秋間を見る。しかし秋間は「ちょっと借りるわというメモを残してきたから大丈夫よん」と意にも介さぬ風だった。おそらくメモを残したのは同伴するリュスカの禁止事項―犯罪行為は拒絶するというSDの基礎プログラム―に引っかからないようするためであって、きっと確信犯であったに違いない。
 「しっかし、クラウゼルちゃんもとんでもないことを思いつくわねぇ」
 秋間が感心した様子で倉瀬の肩を叩く。
 倉瀬が村上の言葉から思いついたマザーの暴走を止める方法、それはMeグループ社に侵入してマザーと直接接触し、人間が新桜花市やMe社にとって必要であることを説明して納得させるというものだった。マザーには高度な自己学習機能が組み込まれており、自分の下した判断がベストだったかどうかを検証し、失敗であったらその原因を探り、同様のシチュエーションの際にはよりベストな判断を下せるように自己のプログラムを最適化する作業を常時おこなっている。その機能を利用すれば、わざわざ命題の修正などという手間のかかることをしなくても、「人間は必要ない」というマザーの判断が間違いであると納得させることで暴走を止めることができる。
 「でも、マザーは一筋縄ではいかない相手よ」
 「そんなことは分かっている」
 秋間の言葉に、倉瀬は頷く。理屈の塊であるマザーには、無論感情というものが存在しない。それはすなわち、情に訴えるということができないということだ。マザーの理屈を打ち破り、間違いを認めさせるには、より論理的な理屈をもって当たるしか方法はない。
 「それでも、やるしかないんだ」
 「まあね」
 秋間もそれに同意する。出来るかどうかではなく、やるしかないのだ。リュスカを助けるためには、これしか術はない。
 「それはさておき、どの通路を使って侵入するの?」
 「これだ」
 しばし地図を見ていた倉瀬が指差したのは、「N-01」と書かれた通路であった。新桜花市を南北に貫き、南側の端はMeグループ社の敷地内で終わっている。
 「ここを使えば、迷うことなくMeグループ社の中に侵入できる」
 倉瀬がMeグループ社への侵入経路として考えていたのは、地下ケーブルのメンテナンス用通路であった。地下であればマザーの操る無人兵器に攻撃される恐れはないし、またメンテナンス通路は全線においてディジタルウェブの無線回線がつなげる環境になっているのでSDも活動できるという利点があった。
 「そうと決まれば、あとはメンバーね」
 秋間が顎に手をやる。「アタシとクラウゼルちゃんは当然として……あとはなしのちゃんと?」
 「私もいっしょに行くよ、お兄ちゃん」
 リュスカが秋間の袖を引っ張る。「ねえ、いいでしょ?」
 「……」
 リュスカの真剣な眼差しを見て、秋間は無言で考え込んだ。ボディーガード型ではないリュスカにとって、今回の侵入作戦はかなり危険である。倉瀬の思惑通り無人戦車や無人ヘリコプターの攻撃をうけることはまずないだろうが、軍用SDやm.s.s.s.が襲撃してくる可能性はじゅうぶんにある。
 だが、両親に捨てられた経験のある秋間は、置いていかれることの辛さを誰よりも知っていた。それに、いまこの街でSDにとって安全な場所など、もはやどこにもないだろう。この場所だっていつマザーの襲撃を受けるか分かったものではない。
 秋間はため息をつくと、リュスカの肩をぽんと叩いて言った。
 「OK、期待してるわよ」
 「ありがとう、お兄ちゃん」
 「もし、若様の許可がいただけるのでしたら、私めも……」
 ロベルタが名乗り出る。
 「私めはゲリラ戦やテロの訓練を受けております。また、アグジェリア反政府軍に所属していたときにも、今回のような侵入作戦に何度か参加していますので、必ずお役に立てると思うのですが……」
 「……ロベルタちゃん、ひとつだけ尋ねるけど」
 秋間がロベルタに向き直る。「必ず答えて、なんて言わないけどさ……アンタ、本当は宮川ちゃんとゆかりちゃんが一緒にいるところを見たくないから、アタシたちの方に来るつもりなんじゃないの?」
 秋間の問いかけに、ロベルタは首を横に振った。
 「……私めはただの使用人にございます。それに、宮川家には逃亡兵だった私めを匿ってくださった恩義もございます。それに報いるためにも、私めは私めにできる精一杯のことをしたいと思っている次第でございます」
 「……」
 まっすぐに向けられてくるロベルタの視線を見つめ返す秋間。その真摯な瞳を見る限り、少なくとも彼女が嘘をついているとは思えない。
 「……なら、いいんだけど」
 (本当の自分の気持ちを、隠しているような気がするのよね……)
 秋間はひとりごちた。真摯な瞳の奥底に、不透明なヴェールで隠された感情があるように思えてならない。しかも、その感情は驚くほどネガティブなもののような気がするのだ。気のせいならよいのだが―しかし、どうしても不吉な予感が心の中をよぎるのを禁じえない秋間だった。

 

 午前4時過ぎ。
 「人数分の防弾チョッキを調達してきたぞ」
 部屋に入ってきた下田がテーブルの上に防弾チョッキを広げる。目を丸くしてそれを見た万景寺が「どこで手に入れたのじゃ」と尋ねる。
 「いや、家宅捜査にきた連中から借りたのさ」
 野門流古武術の使い手である下田は、その腕前を買われて人質救出などの特殊な任務に借り出されることが多かった。新桜花署でそのことを知っているのは署長とSDの鬼杏くらいなのだが、機動隊や対テロ特殊部隊の隊員の間では凄腕の捜査員として実は名が通っているのである。
 今回、新桜花総合病院の院長は先日のホテル爆破の容疑がかけられている。おそらく対テロ特殊部隊の連中も借り出されているだろうと踏んだ下田は、鬼杏と地上に戻って顔見知りの隊員と接触、事情を話して防弾チョッキを人数分借り受けてきたのだった。
 「本当は銃器を借りてこられればよかったのですがね」
 苦笑いを浮かべる下田。いかに歴戦の勇士の頼みでも、銃器はさすがに貸してはくれないだろう。隊員をひとり眠らせて頂戴することもできなくもなかったが、後々のことを考えると諦めざるを得なかった。
 「ところで万景寺先生はどうするのですか?」
 「ふむん」
 万景寺は侵入経路について討議を重ねる倉瀬やロベルタを見ながら、顎髭をしごいで見せた。
 「そうじゃな……あの若い連中を無事Meグループ社に潜入させる為に、地上で奴らの気を引こうと考えておる」
 「ほほう、面白そうですね」
 下田の目がきらりと光る。「ぜひとも自分も参加させてほしいものです」
 「まあ、止めるだけ無駄じゃろうからな」
 ため息をつく万景寺。下田はニヤリと凄みのある笑みでそれに答える。
 「それでは、自分と鬼杏が同行します―いいだろう、鬼杏?」
 「はい」
 傍らの鬼杏が神妙な表情で頷く。「マスターのお命は、このわたくしがわが身に代えてもお守りいたします」
 「おいおい」
 困った表情で下田が言う。
 「別に自分は死にに行くわけじゃないぞ。身の程知らずのコンピュータ野郎をからかってくるだけだ。それに……」
 「?」
 「……その、なんだ。鬼杏に死なれたら自分も困るんでな」
 何故か目を逸らす下田。しかし、当の鬼杏は意味が分からずきょとんとした表情を浮かべている。
 「? ?……はい、ありがとうございます」
 「なあなあ、しゅーほー。あたしも付いていっていいだろ?」
 珍しく白衣姿の弓音が万景寺の腕を引っ張る。しかし、万景寺は予想に反して厳しい表情で首を横に振った。
 「だめじゃ」
 「ど、どーしてよぉ!」弓音が頬を膨らませて抗議する。「鬼杏も一緒に行くんだろ。あたしも連れていっておくれよ!」
 「だめじゃといったらだめじゃ!」
 「なんであたしだけ仲間外れなんだよ!」声を荒げる弓音。「まさか、あたしを危険な目に遭わせないためとか言い出すんじゃないだろうねぇ!!」
 「そんな恥ずかしいことが言えるか!」
 駄々をこねる弓音を万景寺が一喝する。迫力に押され騒ぐのをやめる弓音。その彼女に、万景寺は今度は優しい表情と声で話し始める。
 「よいか、弓音。ヌシには別にやってもらいたいことがあるのじゃ」
 「……なんだよ?」
 「ヌシには倉瀬たち侵入組についていって欲しいのじゃ」
 万景寺は説明する。自分たち地上陽動組も危険だが、地下を進むMeグループ社侵入組だって決して安全とは言い切れない。m.s.s.s.が待ち構えているかもしれないし、あるいは軍用SDもまだ残っているかもしれない。秋間やロベルタは腕が立つし、ボディーガード型SDのなしのもメンバーの中にいるとはいえ、それは裏を返せば3人以外の残りの連中は荒事とは無縁の民間人であるということである。いかに3人が腕っこきとはいえ、まったく無傷で彼らを守り通すのは、正直言って至難の業であろう。
 そこで、もし侵入組メンバーに負傷者が出たときのことを考え、応急処置の出来る弓音に同行してもらい、けが人が出たら適切な処置を行ってもらいたい……。
 「でも、でも……」
 弓音はついに涙目になりながら訴えた。「あたし、しゅーほーのことが心配なんだよ……」
 「ばかじゃな」
 嗚咽をあげる弓音の頭を、そっと撫でる万景寺。
 「ワシは別に死ににいくわけではないのじゃぞ」
 そして、白衣の内ポケットに手を突っ込み、1枚の古びた写真を取り出す。弓音の白い手を取り、その写真を手に持たせる。
 「……これは?」
 セピア色の写真に映っているのは、旧日本軍の軍服を着た十数名の兵士の集合写真だった。衛生兵の部隊だろうか。兵士たちの真ん中に、白い看護婦着を着た弓音と瓜二つの女性が立っており、その隣に緊張の面持ちで直立不動している小柄な青年の姿がある。どうやら若かりし頃の万景寺らしい。
 「その真ん中に映っている女性が柊弓音(ひいらぎ・ゆみね)じゃ」
 遠い目で語る万景寺。「彼女がいなければ、今のワシはなかったじゃろうな……」
 弓音ははっと気づいた。万景寺が前に言っていた、弓音のモデルとなった女性―それがこの写真の女性なのだろう。なるほど確かに自分自身とそっくりである。いや、正確には弓音のほうが彼女に似せて造られたのだが。ともかく、弓音を過去に亡くなった女性の代用品として作ってしまったという万景寺の後悔の意味が、今、弓音には分かったような気がした。
 「もし、ヌシが『弓音』という名前が気に食わないのであれば―」と、万景寺。「今回の件が終わったら新しい名前を決めよう。そうじゃな、なんなら鬼杏も混ぜて一緒に考えような」
 しかし、弓音は首を振った。
 「ありがと、しゅーほー……でも、あたしこの名前とボディが気に入っているんだ」
 「そうか……」
 「うっし、そうと決まれば!」弓音は立ち上がると涙を手で払った。「あたしも準備するかぁ!!」
 「おい、その写真はヌシに預けておくからの」部屋を後にしようとする弓音に、万景寺が声をかける。「ちゃんと後で返すのじゃぞ!」
 弓音は、それに右手を上げて答えた。

 

 時計の針が午前5時を過ぎた頃、宮川がひょっこりと食堂に現れた。
 「前園さんとまつさんはいらっしゃいますか?」
 宮川は「大事な話がある」といって二人を部屋の外に連れ出す。何事かといぶかる前園とまつに、宮川は真剣な表情で話し始めた。
 「まずは、先に二人に謝っておかなければなりません」
 宮川はそういうと、白衣のポケットから小さな機械を取り出して見せる。それは、南町の地下アジトで宮川たちがまつの首筋に埋め込んだ機械であった。SDの精神的ショックを和らげる一種のバイパス装置だと前園たちに説明をしていたものである。
 「それがどうしたのです?」
 「実は、これはSDの精神的ショックを和らげるための機械ではないのです」宮川は申し訳なさそうな表情で言葉を続ける。「ある目的のために前園さんとまつさんには嘘をついていました」
 「……どういう意味だ」
 前園の目が細くなる。宮川は機械をポケットに戻すと、前園の顔を正面から見据えた。
 「まつさんの首筋に埋め込んだのは、本当は大容量のメモリなんです」
 村上と宮川は、ウィルス攻撃の際、通常の端末からそれを行った場合簡単にブロックされる可能性が高いと考えていた。マザー内のパーソナルコンピュータ領域は特にウィルス等の侵入に対する高いセキュリティ能力を有しているし、最悪の場合マザー本体からパーソナルコンピュータ領域を切り離すことでマザーそのものを保護することが出来る様になっている。
 そこで村上は、ウィルスの通常のディジタルウェブ回線からではなく、SDコントロール用の専用回線を通じて送り込もうと考えたのである。SDをコントロールするための領域がマザーの中枢により近い位置にあるというのも理由のひとつだった。そこにウィルスを送り込めばより迅速かつ効率的にマザーに打撃が与えられると考えたのである。
 だが、問題は村上たちの手元にSDが1体もいないということだった。反マザー地下活動を行っている村上たちにとって、いわばマザーの手先であるSDとは接触することさえ危険なことであったが、それでも、SDにウィルス送信の細工を施すためにあえて危険を冒す必要があった。
 そのような経緯で、前園宅にあの『Sからの手紙』が送られたのである。まつに空の大容量メモリをあらかじめ埋め込んでおき、後にウィルスが完成したらそのメモリにコピー、まつをコントロールしているディジタルウェブ回線を通じてマザーに感染させる。マザーに感づかれないようにするために、そのことはまつやマスターの前園にも伏せておき、ウィルス送信は外部からの無線信号で作動させる―と、いうのが村上たちの描いたシナリオだった。
 「なんてこった……」
 前園が顔を手で押さえる。
 「二人を騙していたのは申し訳ないと思っています」宮川が頭を下げる。「でも、あの時はこれしかその方法がないと考えていたのです」
 「それで、そのことをオレに話したということは、その大容量メモリを取り外してくれるということなのかな?」
 「いいえ」
 顔を上げた宮川は首を横に振る。
 「その逆です。たった今完成したウィルスを、まつさんのメモリにコピーします」
 「何故だ?」と、前園。「オレたちはウィルス攻撃をするつもりはないぜ。その為にMeグループ社に乗り込むんだからな」
 「分かっています」宮川が頷く。「僕がお願いしたいのは、万が一の時の保険なのです」
 「保険だ? どういう意味だ?」
 「もし、倉瀬さんのいう『マザーの説得』が失敗した場合、事態は最悪の展開を迎える可能性があります。そうでなくても、例えばマザーの防護が思ったより強力で制御室までたどり着けないという可能性も否定できないでしょう」
 その点に関しては、前園も首肯せざるをえない。何しろ、前園を含めて侵入組のほとんどが潜入や戦闘など未経験なのだから。
 「それは……そうだが」
 「もしそうなってしまった時の保険として、ウィルス攻撃を用意しておきたいのです」と、今度は宮川は小さな無線スイッチを取り出し、前園に渡す。「これがウィルス送信の起動スイッチです。もし、マザーの説得が失敗に終わった場合、このボタンを押してもらえればSDのコントロール回線を通じてマザーにウィルスが送信されます」
 「オレが押すのか?」
 無線スイッチを受け取った前園が狼狽の表情を浮かべる。
 「誰が押しても構いませんが……貴方が一番適任だと思います」
 「……わかった」
 前園はポケットに無線スイッチを収めた。「引き受けるよ。それと、ウィルスのコピーとやらにはどれだけの時間がかかる?」
 「10分もあれば」
 宮川の答えに頷いた前園は、まつの方を向くといった。
 「そういうことだから、宮川さんのもとに行ってウィルスコピーの処置を受けてきてくれ」
 「……大丈夫なのでしょうか?」
 まつは不安な表情を隠さない。当然であろう。自分の身体の中にいつのまにかその様な物騒なものが埋め込まれていたのだから。
 「ここまできて疑っても仕方ないだろうな」
 前園はまつの頬に手を当てる。
 「それに、まつのことはオレが守ってやるから、心配するな」
 「旦那様……」

 

 ―そして、午前6時。
 「作戦を説明する」
 防弾チョッキを着込み、対SD用ジャマーを仕込んだナップザックを背負った倉瀬が、一同を振り向く。
 「私とロベルタは地上に出向き、武器の調達を行う。まずは土木関係にあたってダイナマイトを入手したい」
 「わかった」
 ロベルタが頷く。「いざとなったら許可を取らずに持ち出せばいい話だ」
 「秋間は同じく地上に戻って市内の様子を偵察してほしい」
 「りょーかい」敬礼してみせる秋間。
 「前園さんは他に侵入に必要になりそうなものの調達を頼む。懐中電灯やロープなどだ」
 「OK」
 「ワシは陽動作戦の準備を進めておく」と、万景寺。「下田も手伝ってくれんかのう?」
 「……その前にちょっとやっておきたいことがあります」
 下田は万景寺に答える。
 「それが終わってからなら」
 「ふむ、まあよいじゃろう」
 「わたしたちはどうすればいいのだ?」なしのがSDを代表して答える。「何を手伝えばいい?」
 「なしのたちSDたちはここに残って充電だ」倉瀬が今度はSDたちに向いて言う。「残りの人間も、それぞれ準備が終わったら身体を休めておいてくれ」
 「作戦開始は何時だ?」
 下田の問いに、倉瀬は時計をちらと見ると答えた。
 「作戦開始は今日の正午だ。先に説明したとおり、N-01通路を通ってMeグループ社に侵入、妨害を排除しつつMeグループ社の地下にあるマザー制御室を占拠する。制御室占拠後はマザーの擬似人格と直接交渉、ヤツに人間がこの街に必要であることを認めさせる!」
 「OK!」「分かったぜ」「承知した!」
 「では諸君」
 それぞれの得物を構えた一行を背に、倉瀬が食堂の扉に手をかける。
 「行動開始だ」

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