ACT.4 暴走の予兆

 一時間後、一行は食堂に呼ばれた。
 「おおっ、この香りは……」
 ふくよかなカレーの香りが、一行の鼻をくすぐる。
 「さあさ、早く席についてちょうだいね」
 リュスカがぱんぱんと手を叩く。一行がめいめい席に―SDの分まで用意されていた―着くと、みるふぁと弓音が、カレーライスの盛られた皿を配り始めた。
 「……あれ、希君とゆ〜にぃさんは?」
 同居人とそのSDの姿が見えない事に気がついた遠野が、みるふぁに尋ねる。しかしみるふぁは「さあ、どこかで仲直りでもしているのではないでしょうか」とのみ答えると、あとはにこやかな微笑みを浮かべているだけだった。
 「……仲直り、ですか?」
 状況が掴めず、首をひねる遠野。
 その向こうでは、カレーに肉が入っていない―肉類はすべて冷蔵庫の中でミイラと化していた―事を嘆く万景寺の頭に弓音がチョップを食らわしていたり、「お兄ちゃんはとくべつに大盛りだよ♪」などと言いながらリュスカが他の2倍はある巨大な皿を持ち出してきて秋間を困惑させていたり、「こ、これがかれーらいすなのですか……作り方をぜひ覚えなければ」と鬼杏が決意を新たにしていたり、それを見た下田がもしかしたらこれからしばらくは食事がカレーづくしになるのではないかと危惧したり、倉瀬がカレーとは何たるかということを語りだしてなしのと熱い議論を交わしていたり、伊吹が弓音たちを手伝おうとして何故か派手にずっこけていたり、それを見た相馬が、「ぱんつ、見えていますよ」と余計なことを言ったばかりにいつの間にやら背後に忍び寄っていたなしのから鉄拳制裁を食らったり……と和気藹々とした雰囲気であった。
 「……こんな雰囲気は久しぶりだね」
 宮川は、となりのゆかりに囁きかけた。
 「うん」
 ゆかりはうなずく。思えば、家出をしてからというもの、このような明るい雰囲気で食事をとったことは一度も無い二人だった。食事は二人きりでとることがほとんどで、しかもそれは大抵は急いで食べる必要があった。のんびり食事を楽しむ暇など一時もなかったのである。
 だが、このような非常時にさえ、食事を楽しんでいる一行を見ると、ちょっぴり羨ましく思うゆかりでもあった。
 「はい、それでは皆様でご挨拶しましょうね〜」
 小学校低学年の担任教師のような口調で、みるふぁがのんびりと宣言する。「いただきます」
 「いただきます!」
 元気な挨拶の後、いっせいに食事を始める一行。ベジタブルカレーのみというシンプルなメニューだったが、味はすばらしいものだった。
 「まだおかわりはありますからねー!」
 「じゃあ、ワシおかわりをもらおうかのう」
 「自分も」
 「……私も頂戴しますわ」
 「時に博士」
 カレーライスを半分まで平らげた倉瀬が、いちどスプーンを置いて村上の方を向いた。
 「ふぁんだね?」
 「……いや、返事は口の中のものを飲み込んだ後で結構」
 カレーライスを飲み込んだ村上が、改めて倉瀬のほうを向いた。
 「……失礼、何かね?」
 「さっきの質問の続きだ。なぜ博士たちはもえを使ってSDを破壊していたのだ?」
 「ふむ」その問いに、村上は顎に手をやった。
 「その前にひとつ君たちに話しておかなければならないことがある」
 村上の言葉に、食堂に集まった人間とSDの視線が集まった。
 「私がマザーに見つかる危険を犯してまでここにSDを呼び寄せたのは、実は私にもどうしても分からないことがあって、それを直接尋ねようと思ったからだ」
 「分からないこと?」
 「そうだ。さっき私はマザーが人間を不必要としはじめていると君たちに説明したが、より正確に言うとマザーは『人間という要素が、新桜花市というシステムに無くてはならないパーツになっている事が理解できない』でいるのだ」
 機械ほど耐久力もなく、正確さにも欠け、いちど故障したら修理に時間がかかり、しかもその日の気分や体調によって作業効率が大きく変化する人間というファクターは、マザーから言わせればシステム構成品として不適どころか失格の烙印を押されても仕方の無いものである。しかしながら、その様な欠陥だらけのパーツをよりにもよって新桜花市やMeグループ社というシステムの中でももっとも重要な位置に組み込んでいるにもかかわらず、システムそのものは滞りなく稼動していることがマザーにとってはどうしても信じられないことなのだ。
 「おそらく、マザーはこの人間という要素にいたく興味をもったのであろう。この有機物の塊がどのようなものなのか。なぜ曖昧な存在なのにシステムのパーツの中できちんと役割を果たせているのか?」
 だが、それには問題もあった。
 人間がコンピュータのプログラム上の異常をチェックする時、テスト用のプログラムを使用する。まさか人間が人間にするように「調子が悪いのか」と尋ねたり、額に手を当てて体温を測ったりはしないだろう。そんなことをしても無駄だということは、誰の目にも明らかだ。これはすなわち、異質な存在であるコンピュータの中身を知るには、それを人間の感覚器官でも分かるように『翻訳』する必要がある、という事に他ならない。上記の場合、テスト用のプログラムがいわゆるセンサー兼翻訳機に当たる。これはコンピュータにしてもおそらく同様で、マザーが人間という存在を捉えるためには、彼らにでも分かるような形で翻訳してくれるセンサー及び翻訳機が必要だったのは間違いない。
 「そこで、マザーは人間社会にうまく紛れ込むことができ、そこで得た人間に関する情報を翻訳してくれる特殊なセンサーをひそかに開発させた。開発させた人間たちにもわからないようにね」
 「そのセンサーが、SDだというのか」
 信じられない、といった表情で万景寺がうめく。
 「極論すれば、SDは対人間用戦略偵察ユニットということになる」村上が説明を続ける。「私たちがSDを破壊しようとしたのは、それがマザーの目論見を打ち砕くことになるのだというのと同時に、人間の―より具体的には人間社会の弱点を悟らせないようにするためだ。もし人間とマザーの全面戦争などという事態になったら、合理性の塊であるマザーはまず間違いなくその弱点を突いてくるだろうからな」
 「ううむ」
 倉瀬が唸る。「……コンピュータプログラムを知るために人間はコンピュータを使う。それと同じように、マザーは人間を知るために人間に近いSDを生み出した、ということなのか」
 「そうだ」
 「だが、それにしてはSDの行動が矛盾に満ちているように思える」
 例えばm.s.s.s.が宮川を襲撃したとき、その場にいたSD―すなわちなしのとまつを彼らの作戦に沿うようにうまく操作すれば、制圧は容易だったはずだ。また、渡邊の襲撃の際にも、マザーがなしののアクションを停止させる、あるいは渡邊をフォローするような行動を取らせていたら、事は容易にすんだであろう。しかし実際にはなしのはマザーに対して不利益になるような行動をとり、結局倉瀬を取り逃がしてしまうこととなる。
 「マザー内のSD用個人領域は、個人と言いながら実際のところすべて筒抜けで、マザーそのものの干渉も受けるということは分かっている。しかし、ならば何故なしのや他のSDたちに、マザーに有利に事が運ぶように干渉してこないのだ?」
 「それともうひとつ」
 続いて秋間が口を開く。
 「時折SDの頭の中に流れ込んでくる変な情報もあるわよ。なにしろなしのちゃんがクラウゼルちゃんのピンチに駆けつけられたのは、その情報のおかげなのだからねぇ」
 それは倉瀬も同感であった。なにしろマザーにとっては都合の悪い情報が、SDたちの思考プログラムに急に流れ込んでくるというのだ。当のSD本人も原因が分からないというのだから、さぞかし困惑しているに違いない。
 「もしかして、マザーとは別個の、殺人人形や無人兵器をコントロールしているシステムがあるってことかしら?」
 「その可能性は低いな」と村上。「だが、私の分からなかったことというのは、まさにその点なのだ。なぜ、SDはマザーに不利益な行動を行っているのか?―私は、それをSDに直接尋ねるために、君たちをここに招待したのだ」
 「なぜって……」
 その場にいるSDたちが、互いの顔を見合わせた。
 「そりゃあ、あたしにとっちゃしゅーほーが一番大切だからさ」
 弓音がそう答える。
 「わたしもそうだ。クラウゼルの利益に反する行動は、たとえマザーのメイン領域からの指示であってもわたしは従わぬ」
 「同感」「わたくしもそうです」「わたしもだよっ」
 なしのに続き、SDたちが口々に賛同の意を示す。
 「……SDにとって、マスターの利益はマザーのそれよりも上位だというのか」
 「当然ですね」とこれは相馬。「私にとってまどかは、なによりも代えがたい存在です。まどかの悲しむ顔を見るのに比べたら、マザーの干渉を排除することなど苦でもありません」
 それを聞いた村上は仰天した。
 「と、いうことは、君たちSDの思考プログラムは、独自の判断でマザーメイン領域からの干渉を排除しているというの!?」
 「そうなりますねぇ」
 いつものように陽だまりのような笑顔と口調で、みるふぁがうなずく。
 「信じられん……」
 「分裂症みたいなものだな」
 坂井が興味深そうに会話に加わる。「マザーというでっかい脳みその中に、本来の人格であるところのメイン領域と、それとはまったく別の人格、別の価値観を持つSDたちの領域があるというわけだ。でもって、この二つの人格の価値観は互いに相反するために、それぞれ妨害しあっているというのだな」
 「笑い事ではないぞ、院長」
 「すまない。しかしながらこれで原因は分かった。彼女たちSDにとって、人間の、特にマスターの位置づけは最高ランクなんだ。考えてみればそのように設計したのは君たち技術開発部なのだからね、驚くべきことではあるが別に不思議なことではないと思うよ」
 「だが、マザーはそうは思うまい」村上の表情は険しい。「おそらく、SDたちの一連の反乱行為を、マザーは人間に汚染されたからだと認識するだろう。だとしたら、マザーは必ず次の手を打ってくるはずだ」
 「次の手とは、いったいなんなのでしょうか?」
 伊吹が恐る恐る尋ねる。
 「そうだな……おそらくは―」
 「おそらくは、新桜花市住民全員の強制退去命令」
 なしのがつぶやくように言う。「また、SD領域から情報が流れてきた。これはおそらくはこの街のSDすべての見解なのであろ」
 「それはいかんな」下田が頭を抱える。「自分の娘がまだ地上にいるんだ」
 「事は急がねばならん」
 村上は立ち上がった。
 「宮川君、例のプログラムの準備は出来ているか?」
 「申し訳ありません、完成するまでもう少し時間が掛かります」
 「そうか、君はそれの完成を急いでくれ」
 「博士、そのプログラムとはいったいなんなのだ?」
 倉瀬の問いに、村上はにやりと笑い返した。
 「はじめに言っただろう、私はマザーに対して宣戦布告をすると」
 「まさか……」
 「そのまさかだ。マザーに対し、ウィルスによる攻撃を実行する」

 

 あわてた様子でゆ〜にぃが戻ってきたのはその時だった。
 「どうしましたゆ〜にぃさん、そんなにあわてて……」
 「希ちゃんが……どこにもいない……」
 「なんですって?」驚く遠野とみるふぁ。「よく探したのですか!?」
 「探したよぅ! でもどこにもいないんだ……」
 首をうなだれるゆ〜にぃ。
 「地上に戻ったのではないでしょうか、遠野様」
 「それしか考えられませんね」みるふぁの意見を聞いた遠野は決断した。「分かりました。ここは一旦、すべてを彼らに任せて私たちは地上に戻りましょう」
 「遠野様……」「賢治ちゃん……」
 「貴方たちSDがマスターをいちばん大切に思うように、私も貴方たちと、そして希君をいちばん大切に思っているのですよ」
 優しい笑顔を浮かべて、二人の肩に手を乗せる遠野。「さあ、行きましょう」
 エレベータで地上に戻ると、外はすっかり夜が更けていた。遠野は二人を自家用車に乗せ、とりあえず自宅であるアパートへと戻る。その道すがら、みるふぁは遠野に事の次第をすべて話した。
 「なるほど……」と遠野。「しかし、そこまで感情がもつれ合うなんて、SDというのは本当に良く出来ているんですねぇ……」
 「そんなことはないです」ゆ〜にぃは力なく首を横に振る。「よく出来た思考プログラムなら、マスターに対して一片の疑いも持つはずなどありませんから」
 「ゆ〜にぃちゃん……」
 「そうではありませんよ」
 遠野はちらりと目線を後席のゆ〜にぃに向けた。「よく出来ているというのは、本当に人間とそっくりだなといっているんです。なんというか……自分の想いがうまく伝わらない、言葉に出来ないという貴方の気持ちは、私もよく理解できます」
 ゆ〜にぃは無言。
 「……実は私もそうなのですから」
 「そうなのですか、遠野様?」
 「そうなんですよ」意外そうに尋ねるみるふぁに、遠野は舌を出してみせる。「こう見えても私はデリケートなのですから」
 アパートに到着する。部屋に灯りは点いていなかった。
 「こっちにも戻っていないのですかねぇ……」
 リビングの灯りを点けながら遠野はひとりごちる。さりとて、北町の実家のほうに帰ったとは考えにくい。まさかとは思うが、北町の繁華街で飲んでくだを巻いているのか……
 そんなことを遠野が考えていると、希の部屋を見ていたゆ〜にぃが、2通の手紙を持ってリビングに飛び込んできた。
 「賢治ちゃん、これ!」
 「これは―」
 それは、希からの置手紙だった。1通は遠野宛。もう1通はゆ〜にぃ宛である。嫌な予感を感じつつも、遠野は封を開け、中の手紙を取り出す。読み進めるうちに、普段は穏やかな遠野の表情が険しいものになっていく。
 「―希君は、この街をでるつもりです」
 「ええっ!」
 ゆ〜にぃとみるふぁが驚きの声を上げる。
 遠野宛の手紙には、今まで短い間だったが世話になったお礼と、ゆ〜にぃの事をよろしくお願いするという内容が書き連ねてあった。たった数行の肉筆の手紙。そこには街を離れる理由は一切書かれていない。それでも、そのわずかな文章の行間から、希がなにか大きな悩みを抱えていたということは遠野には痛感できた。そして、今更ながらに事態の深刻さに気づき、今まで何もやってやれなかった自分の愚かさを心の底から呪った。
 ゆ〜にぃ宛の手紙には、『こんな別れ方になってしまったのは残念だけど、ボクはキミに会えて本当によかったと思っている。キミとの思い出は一生忘れないよ。これからも賢治ちゃんやみるふぁちゃんと仲良く過ごしてね』そして最後にたった一言、『大好きだよ、元気でね!』とだけ書き添えられていた。
 「……どういたします、遠野様?」
 みるふぁが尋ねる。「このままだと、ゆ〜にぃちゃんのマスター契約が消滅してしまいますよ」
 ユーザーが死亡、ないしは失踪した場合、SDのリース契約は消滅し、直ちにSD本体及び周辺機器をMeグループ社に返還しなければならない―と、規約で定められている。すなわち、このまま希が戻ってこなければ、ゆ〜にぃとのマスター契約は解消され、ゆ〜にぃはMeグループに戻ることになるのだ。
 「もしそうなったとしたら、ゆ〜にぃさんはどうなるのです?」
 「契約が解除されてMeグループ社に返還されたSDは、それまでの記憶と人格をすべて消去されます。そして、新たな外見と人格を施されて、まったくの別人として次のマスターのもとに送られます……」
 説明するみるふぁの表情は暗かった。「私たちSDは人間と違い、マスターがいて契約があって初めて存在が許されるのです。もし希さんが戻ってこないのでしたら、ゆ〜にぃも消滅するほかございません」
 「しかし、戻ってくるまで私が面倒をみれば……」
 「勘違いなさらないでください」食い下がる遠野を、普段は滅多に見せない固い表情で遮るみるふぁ。「希さんが自ら進んで契約破棄になるような行動を行っている、その事が問題なのです」
 「ちっくしょう……」遠野が頭を抱える。「この石頭!」
 「融通が利かないとお思いかもしれません」
 我慢強く説明を続けるみるふぁ。「ですが、私たちSDもこの点だけは絶対に譲ることが出来ないのです。私たちの人格を形成する思考プログラムは、『契約したマスターたる人間に従う』という事を前提に組まれています。もしマスターが私たちの前から姿を消してしまったら、その前提条件が崩れてしまい、自分自身の存在理由を失ってしまいます。もしそんなことになってしまったら、最悪の場合、人格崩壊を起こしてしまうかもしれません……」
 そこまで言って、みるふぁは口をつぐんだ。ふと、ゆ〜にぃの方を見やる。手紙を凝視しているゆ〜にぃの顔面は蒼白だった。おそらく、希は普通の人間相手に出すようなつもりでこの手紙をしたためたのだろう。だが、ゆ〜にぃにとってこの手紙に書かれていた内容は、まさに死刑宣告に等しいものだった。
 「……だったら、連れ戻してくればいいんですね?」
 呟くように言う遠野。その表情には新たな決意が秘められていた。
 「希君をここに連れ戻してくれば、契約は破棄にならない、そうなのですね?」
 みるふぁは、にっこり笑ってうなずいた。
 「みるふぁさん、希君は今どのあたりにいると考えられますか?」
 「もし、希さんがこの街を出て行くのに電車を使うのでしたら」みるふぁは、マザーからJRのダイヤを引き出しながら計算する。「最終列車に乗ったと考えて、あと30分ほどで新桜花市から離れてしまいますね」
 「わかった、それじゃ急がなきゃね」
 遠野はそう言うと玄関に向かう。みるふぁとゆ〜にぃがそれに続いた。
 「ご存知とは思いますが、私とゆ〜にぃちゃんは新桜花市を離れると行動不能になってしまいます」
 「そうです、だからゆ〜にぃと会わせる為にも、この街から出る前に捕まえなければならない」
 「出来るのですか?」
 「やってみますよ」
 自家用車のドアをばたんと閉めた遠野が、助手席のみるふぁにニヤリと笑いかけた。

 

 その頃、希は新桜花駅発の最終列車に揺られながら、窓の外を流れる景色―といっても夜だからほとんど暗闇なのだが―をぼんやりと眺めていた。
 乗客は殆どいない。大学生らしい眼鏡をかけた女性がひとり、向かいの席で文庫を読みふけっていた。そのタイトル―前園なんとかという作家が書いた一昔前の恋愛小説だった―を盗み見ていた希は、ふと顔をあげたその女性と目をあわせてしまった。
 「……」
 女性は笑顔を浮かべると軽く会釈する。慌てて頭を下げて目線をそらした希は、もう一度窓の外に目をやると、力なくため息をついた。
 この町にいるのがもうイヤだった。
 駆け落ちしたと聞いて心配していた妹には、もはや自分のことを姉とは思っていないとはっきり告げられた。
 遠野は単なる同居人であり、これ以上頼ることはできない。
 アスカは『深大寺家のメイド』という立場がある以上、これ以上の迷惑はかけられない。
 そして、ゆ〜にぃさえも、こんな自分をついに嫌いになってしまったらしい。
 もはやこの街に留まる理由はなかった。だから、途中で病院を抜け出し、アパートに戻って荷物をまとめるとこの電車に飛び乗ったのだ。
 希は腕時計を見た。新桜花市の市境まで、あと30分ほどくらいか。電車が新桜花市を出てしまったら、もうゆ〜にぃもみるふぁも自分のことを追いかけることができなくなる。マザーからの遠隔操作で動いているSDは、ディジタルウェブの無線通信が届かない市外では行動できないのだ。
 そうなったら、二人の関係はほんとうにお終い。
 「……追いかけてくれることを、期待しているのかな?」
 この期に及んで電車が新桜花市から出る時間を気にしている自分に気づき、希は自嘲を浮かべた。そんなはずはない、ゆ〜にぃはこのボクのことが嫌いなんだ。追いかけてなんかくるはずがない……
 踏み切りの音が通り過ぎ、赤い光が一瞬だけ希の顔を照らし出す。
 「……さて、終点に着いたらどうしようかな?」
 新桜花市のJR線は隣町までしか延びていない。そこからはまた別の交通機関を調達しなければならないのだ。具体的にはバスかタクシーということになるのだが、バスはおそらくもう走ってないだろうし、タクシーに乗れるほど懐が豊かなわけでもない。とりあえず宿を見つけて一泊するしか選択肢はなさそうだった。そして翌朝、改めて今後の身の振り方を考える。ゆ〜にぃに会わない様にするだけなら、隣町まで離れれば十分なのだが、希はつらい思い出しか残っていない新桜花市からなるべく離れるつもりでいたのだ。
 希が物思いにふけっていると、急に車内の灯りが暗くなった。
 「……あれ?」
 ブレーキのきしむ音を響かせながら、電車が急停止する。バランスを崩して椅子から転げ落ちかけた希は、同じく文庫本を取り落としてしまった先ほどの女性と思わず顔を見合わせた。
 「何でしょう?」「停電かな?」
 窓の外を見る。外は相変わらず暗い。それもそのはずで、このあたりは新桜花市のいちばん端で、民家などほとんど無いところなのだ。だが、反対側の窓から外を見ていた眼鏡の女性があっと声を上げた。
 「新桜花市の灯りが消えています……」
 「え!?」
 あわてて窓に駆け寄る希。確かに新桜花市のある方向は暗闇に覆われている。かすかに自動車のヘッドライトが瞬いている程度だ。新桜花市全域が停電なのだろうか?
 「珍しいですよね、停電って」
 隣の女性が無邪気に話す。新桜花市の都市インフラはマザーによって集中管理されており、よほど不測の事態が起きない限り―そう、例えば変電所が爆破されるような変事でもなければ、停電など起きることはまずありえない。
 「マザーによって管理……マザー!?」
 村上たちの話を上の空で聞いていた希であったが、それでも、どうやらマザーがなにか悪さをしているらしいということだけはかろうじて覚えていた。もしかしたら、これはマザーの仕業なのではないだろうか?
 希は運転士に状況を尋ねようとして席を立ちかけたが、この電車もマザーによって無人運転されていることを思い出して再び座席に座り込んだ。
 「……ヘリコプターが飛んでいますよ?」
 女性が頭上を振り仰ぐ。ヘリコプターのローター音らしいその轟音は、むろん希の耳にも聞こえていた。よほどの低空を飛んでいるらしい。ヘリコプターの音は電車の上を通り過ぎ、いちど離れていったかと思うと再び近づいてきた。今度もやはり超低空飛行。
 「うるさいなぁ……」
 さすがに顔をしかめて窓の外に目をやった希がそこに見たものは、まるで電車を覗き込むかのように低空でホバリングするヘリコプターの鋭角的な機首と、その先端についているガドリング砲の砲口だった。
 「!!」
 ガドリング砲が咆哮する。毎分3000発もの発射速度で放たれた12・7ミリ徹甲弾が、電車の窓ガラスとアルミ製の車体をまるで紙かなにかのように切り裂いてゆく。轟音と衝撃。ヘリコプターはそのまま横方向に移動し、電車全体を薙ぐように掃射を続ける。電車の中に動くものが無くなったことを確認したヘリコプターは、一度上昇して電車から距離を取ると、今度は胴体側面のスタブウイングに装備された対戦車ミサイルを放った。
 対戦車ミサイルは穴だらけの電車に吸い込まれるように命中、火柱が上がる。
 その光は、電車を追いかけて車を飛ばす遠野たちもはっきりと見ることができた。
 「……あれは、希さんが乗っているはずの電車の方向ですよ!」
 窓から身を乗り出したみるふぁが、髪をなびかせながら叫ぶ。
 「まさか、事故でしょうか!?」
 「そんなはずありませんよ!」
 ハンドルを握る遠野が喚き返す。
 「……希君にはぜひ伝えなければならないことがあるのです。その前に死なすわけには行きません」
 「マザーだ……」
 「え?」
 後席に座っていたゆ〜にぃが震える声で呟いた。その目は恐怖に慄いている。
 「マザーがついに……動き出した」

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