ACT.1 幕間 #1

 「私が村上竜三(むらかみ・りゅうぞう)だ」
 薄汚れた白衣をまとった男がそう自己紹介したとき、部屋を訪れていた一行はそれぞれ温度差は異なれど驚きととまどいの表情を浮かべていた。
 「…あの…アンタがそのSDを開発した…」
 一行を代表して秋間顕一郎(あきま・けんいちろう)が尋ねる。
 「いかにも」
 村上はうなずく。
 この時、他の人間たちの心の中では『なぜ村上博士がこんなところにいるのか?』『博士が自分とSDを呼び出したのはなぜなのか?』という戸惑いにも似た疑問が一様に渦巻いていたのだが、秋間は違った。
 『な、なんてお約束な格好なの!?』
 まともに櫛など通したことの無いようなぼさぼさの髪に無精ひげ、しみだらけの白衣、まったくもって片付けられた形跡の無い部屋―自分の興味ある研究以外は一切構わないという典型的な研究バカを村上博士は体現していたのだ。しかも、見事なほど完璧かつ徹底的に。あるいはもしかしたら自分たちを油断させるためのポーズかもしれないと秋間は考えたのだが、いくらなんでもそれは買いかぶりすぎというものだった。
 「どうした、なにをぼんやり突っ立っておる」自分の登場が思いのほか衝撃を与えたことに気を良くしたのか、村上はにやつきながら言った。「さっさと部屋の中に入ってきたまえ、そしてはやく扉をしめるのだ」
 「あ、はい」「申し訳ありません」
 SDを含めた8人全員が入ると、部屋はたちまちすし詰め状態になった。ただでさえ部屋が手狭なうえにものがあふれかえっているのだ。結果として一同は身を寄せ合うような形になり、まるで満員電車に乗り合わせたかのような不快感を感じずにはいられなかった。
 「おにーちゃぁん」「まどか、私がしっかりと支えてあげますよ」
 …中にはそうではない者もいたようだが。
 「さて、せっかく来てもらったのだからお茶くらいはださんとなぁ…」
 しかしそんなことにはまったく気にも留めず、村上はのんびりした表情で言った。「はて、薬缶と急須はどこにおいたかな…」
 と、机と思しきあたりをがさがさと探し始める村上。部屋は書類やROMディスクやプリントアウトしたデータや専門書や、その他雑多な物ものに埋もれている。それこそ床のタイルが見えないくらいにである。その中から目的の物を探す―この場合は急須と薬缶―というのは、砂の中に混じった小さなダイヤモンドを探すくらい難しい事のように一行は思えた。さらに絶望的だったのは、部屋の片隅にあるキッチンセットが、インスタントラーメンのカップや缶詰の空き缶やレトルト食品の袋や空のペットボトルなどのごみの山に完全占拠されていた事だった。こんな環境で淹れられた茶を口にした日には、ここにいるSDを除いた全員が食中毒になりかねない。
 「…ねえ、ロベルタ」
 秋間のSD、リュスカ(りゅすか)が、なにやら我慢しきれないような表情を浮かべて傍らのロベルタの腕をつつく。
 「…もしかして、リュスカ殿も?」
 そう尋ね返すロベルタも、まるで禁煙中のヘビースモーカーのような表情だった。
 「うん…もう、耐えられないよ」
 「わ、私もです」
 一方、倉瀬クラウゼル(くらせ・くらうぜる)は、傍らに立っていた自分のSDなしの(なしの)が突然胸のあたりを押さえて苦しみだしたのに気づいた。
 「う…く…」
 「どうした、なしの!?」
 なしのの様子を伺いながら、倉瀬の心に言い知れぬ恐怖がこみ上げてくる。
 「まさか…お前マザーに…」
 「もう我慢できぬ!」
 しかしなしのはそう叫ぶと、倉瀬の方を一瞥もせずに部屋の隅にあるやたらとレトロな掃除用具入れに駆け寄った。扉をあけるのももどかしく、中からモップや箒やはたき、雑巾やバケツなどを次々と取り出してゆく。
 「……なしの?」
 「SDとして、メイドとして!」
 呆気にとられる一同に、振り向いたなしのは高らかに宣言した。
 「このような散らかった上に非衛生的な部屋を放置することはわたしの矜持に反する!」
 「そのとーり!」
 それに賛同したのはリュスカであった。
 「だいいち、こんな部屋にずっといたらお兄ちゃんの身体が悪くなっちゃうよ!」
 「私もメイドとしてこの戦いに参戦させてもらいます」
 さらにロベルタが前に進み出る。声と表情はまさに最後の決戦に挑む兵士のそれであったが、埃よけのマスクをしていた顔で言われては、どうにもしまらない。
 「…いいだろう」
 なしのはうなずく。要するに、リュスカもロベルタも、この部屋を掃除したくてうずうずしていたのだ。本当に根っからのメイドである。
 「そういうわけでこれからこの部屋の掃除を始める」
 それぞれ掃除道具を手にした3人が村上の方を向く。「よろしいな」
 「……まあ、仕方なかろう」
 それなりの自覚があったとはいえ、自分の研究室を非衛生的環境呼ばわりされた村上は、さすがに苦い顔でそれに応じた。いずれにしても急須と薬缶は見つかりそうに無かったのだ。
 「では、皆さんも掃除が終わるまで部屋を出ていて欲しい。見苦しいところをマスターたちに見せるわけにはいかないからな」
 「……はあ」
 かくして、部屋の主である村上を含めた全員を研究室から追い出したメイド3人は、家事仕事の戦士となって強敵との戦いを繰り広げ始めたのである。

 

 「なんというか、拍子抜けねぇ…」
 廊下の壁にもたれた秋間はそうつぶやいてため息をついた。ここに呼ばれた時にはもっとシリアスな展開を予想していたのだが。
 「そうですね…」
 隣の伊吹まどか(いぶき・まどか)がうなずく。彼女のSD相馬綾(そうま・あや)は、同じSDということでなしのたちに研究室に引きずり込まれ、掃除を手伝わされていた。
 「でも、なぜ村上様は私たちを呼ばれたのでしょうか?」
 伊吹はひとりごちた。相馬が以前話した『今は言えない理由』と何らかの関係があるのだろうか。
 「倉瀬様は、何かご存知なのですか?」
 「ん、ああ…」
 思案顔の倉瀬が曖昧な返事を返す。「はっきりとは私もわからない。けど…」
 「けど?」
 「さっきの軍用SDや、なしのたちを襲ったというm.s.s.s.と無関係ではないだろうよ」
 実は、倉瀬はこの件の裏側で進行していることに関してあるひとつの推理を立てていたが、それを伊吹に説明しようとはしなかった。その推理には主観的な推測や予想でしかない要素も多数入り込んでいて、客観性に欠けているというのが説明しない理由の最たるものだったが、いまひとつ、この様なことする『目的』がはっきりしないためというのもあった。言い換えれば、この推理が現実のものだとして、これによって利益を得る者が誰もいないのだ。
 どのような陰謀であれ、それを実行するのは何らかの実利を得るのが目的であろう。それは金銭的な利益とは限らない。例えば会社でいえば個人の保身のため、あるいは昇進のためというのもあるだろうし、もっと非建設的な目的としては個人的な復讐や愉快犯というのもある。「やってみたかった」という好奇心を満たすのは、他人の意見はどうあれ実行した本人にとっては大いなる利益だ。どうしても理屈に合わなければそのような目的を黒幕は持っていたのだ、という事で納得することもできるかもしれないが、しかし、倉瀬の推理でいくと、この陰謀の黒幕に限ってはそのような非建設的な目的を持つとは考えにくいのである。
 「…何らかの合理的な目的がある…しかしその目的とはなんなのだ?」
 「なにかおっしゃいました?」
 「いや」
 伊吹に問われて、あわてて首をふる倉瀬。
 「そうですか…」
 伊吹は伊吹で少なからぬ悩みを抱えていた。
 彼女と相馬との関係がスタートしてようやく1ヶ月とちょっとを過ぎたばかりであるが、その短い期間で、相馬の存在は伊吹にとってかけがえの無いものになっていた。端的な言い方をすれば、相馬のことが好きになっているのである。これが恋愛感情なのかどうかは伊吹自身にも判然としなかったが、それでも、出来ることなら相馬とはずっと―少なくともモニタ契約の期限が切れるまで一緒にいたいと思っていた。
 しかし、その相馬が、少なくとも今は伊吹に話せないような秘密を隠し持っている。自らそう伊吹に話したのだ。相馬を疑う気持ちはそれこそ毛筋の先ほどもないが、その秘密が明かされることで、二人の関係に変化が起きるのが怖くてたまらなかった。
 「……はぁ」
 ため息をつく伊吹。悩みは他にもあった。先の倉瀬の言葉からして、どうやら悪の親玉はMeグループ社らしいと想像がつく。アスカというメイドの女性に重傷を負わせているし、倉瀬たちの話では月刊チェリーブロッサムの記者を事故に見せかけて殺しているらしい。その罪は当然裁かれるべきであろうと伊吹は思う。しかし、ほんとうに自分たちだけでMeグループ社などという大企業に抗することができるのだろうか。下手をすれば自分が返り討ちにあって殺されてしまいかねない。実際ここにいる倉瀬などは目の前で軍用SDに殺されかけたのだ。たまたまアグジェリアの元反政府軍兵士だというロベルタと、謎の日本武術『バリツ』の達人である秋間、そしてボディーガード型SDのなしのが居合わせたから事なきを得たようなものの、三人がいなければまず間違いなく倉瀬は殺されていただろう。
 (ならばいっそ、このことから目をつぶり、なにも知らない振りをして相馬といっしょに家に帰ったほうがいいのでは…)
 いや違う、と伊吹は否定する。もうここまで聞いた以上、後に引くことは出来ないのだ。例えここで「私たちには関係ない」と言って帰ったとしても、Meグループ社は口封じのために何らかの手段を講じてくるだろう。おそらく『謀殺』という名の手段をもってして。それに相馬はこうも言ったではないか。「すでに私たちSDと関わった時点で、まどかも無関係ではない」と…。
 「そうか…そういうことなのですね」
 これからの戦いは、大好きな相馬との生活を続けるために、絶対に避けて通れない道なのだ。今まで相馬や秋間たちに引きずられる形でここまで来た伊吹には、正直なところMeグループ社と対立するための明確な理由がなかった。だが、今は違う。相馬を守るために、二人の関係を守るために自らの意志で戦いに身を投じるのだ…

 

 一方、秋間が今懸念している事柄は、倉瀬や伊吹の考えているそれとは少々方向性が違っていた。
 (さっき村上ちゃんは、この後宮川ちゃんもここに来るって言っていたわよねぇ…)
 宮川がここに来るということは、おそらく彼の想い人でもある深大寺ゆかり(じんだいじ・ゆかり)も一緒にやってくるのであろう。そう、ロベルタのいわば恋敵で彼女が蛇蝎のごとく嫌っているゆかりが、である。
 彼、秋間にとって、Meグループ社がどんな陰謀を巡らしているのかという問題は、今のところ優先度の低い事柄である。彼にとって大事なのは『女性が不幸な目に遭うのを防ぐこと』であり、それ以外のことは無関心だとは言わないまでも、極めて興味が薄いのは事実だった。
 で、秋間の目に『不幸』と映っている女性は今二人いる。ゆかりとロベルタである。
 ゆかりに関しては、家の反対を押し切って宮川と駆け落ちしているのだが、やはりそれではまずいと秋間は考えていた。どうせ結ばれるなら、両家の祝福を受けさせてやりたい。互いに対立する両家を説得するのはそれこそ至難の業かもしれないが、それでも、駆け落ちして二人で隠れ暮らすという状況よりははるかに建設的だろう。逆に説得さえ成功してしまえば、彼女たちふたりの行く手を阻むものは何ひとつなくなるのだ。とはいえ、現時点では両親を説得するより前に、当面の相手であるMeグループ社の陰謀を叩き潰すのが先決のようだが。
 いまひとつ立場が微妙なのは、ロベルタである。宮川家のメイドである彼女は、家の命令で宮川みづきを探していると表向きはなっている。なってはいるが、実のところどうも彼女も宮川に想いを寄せているようなのだ。それを見抜いたのはリュスカであったが、今にして思えばゆかりの名前を聞いたときの彼女の過剰なまでの反応を見れば、それが嫉妬心から来ているのだというのが分かってもおかしくはなかった。
 しかし、宮川もゆかりに想いを寄せているのは確かなようで、ロベルタの想いが成就する可能性は極めて低い。
 「…でも、成就するだけが恋愛じゃないのは事実よね…」
 たとえその想いが受け入れられなくとも、その時流した涙はいつか必ず自分の優しさになる―そう信じている秋間であった。しかし、その想いとは別に懸念すべき事もあった。
 「…たぶんロベルタちゃんはゆかりちゃんの顔を見るなり絶対に斬りかかっていくわよねぇ…」
 見れば、今周りにいるのは運動神経という言葉とは無縁のような体型の持ち主である村上博士と坂井院長、色白で華奢な女性の典型ともいえる伊吹まどか、どうみても小学生くらいにしか見えない(くどいようだが彼女は御歳二十歳の立派な大人の女性である。外見が幼いだけに過ぎない)倉瀬クラウゼル。いずれも歴戦の兵士でもあるロベルタを腕ずくで止めるなどという事はとても出来そうにない。
 「となれば、やっぱりアタシが止めるしかないのよねぇ…」
 得物を持つ人間と素手の人間とが戦った場合、圧倒的に不利なのは後者のほうである。ましてロベルタの得物は日本刀、まかり間違えれば腕くらいはあっさり切り飛ばされるだろう。それでも秋間はロベルタをなんとしても止める必要があった。例えわずかでもゆかりに傷をつけてしまったが最後、もはやロベルタを救う手立ては完全になくなってしまうのだ。それだけは絶対に防がねばならない。
 あれこれ秋間が思案している内に、廊下の向こうから複数の人間が歩いてくる足音が聞こえてきた。
 「あれ、博士こんなところでなにをしているのですか?」
 先頭を歩いていた青年が所在無げに廊下に佇む村上を見てそう聞いた。村上はややふてくされたような表情で答える。
 「ものが散乱して足の踏み場が無い上に非衛生的極まりない我が研究室を掃除してもらっているのだ、宮川君」
 どうやらなしのとリュスカの言葉を未だに根に持っているらしい。倉瀬がそれを聞いて珍しく吹き出した。
 「それはいいことです。あの部屋は人間が暮らすにはやや環境が劣悪すぎますからね」
 と、ひがむ村上にさらに追い討ちをかけた宮川は、同意を求めるように横にいる少女のほうを見た。「ゆかりもそう思うよね?」
 ゆかりと呼ばれた少女は必死に笑いをこらえている。
 「し、失礼ですよ宮川さん…」
 「でも、事実だよ?」
 (なるほど…この二人が宮川ちゃんとゆかりちゃんね)
 二人のやり取りを見た秋間は、真剣な眼差しで呟いた。二人の後ろにはさらに数名の人間とSDがいたのだが、今の秋間には関係ない。
 やがて笑いの発作がおさまったゆかりが、改めて宮川のほうを向いた。
 「それでは、あたしもお掃除を手伝ってきますね」
 「うん、それがいいと……」
 「ちょおっと待ったぁ!」
 二人の間に秋間が割って入る。「いや、ここは家事のプロフェッショナルであるメイドたちに任せておいたほうがいいとアタシは思うわ!」
 「え、でも……」
 「と、とにかくここは大人しく廊下で待っていたほうが得策よ、ねえまどかちゃん?」
 「え…わ、私?」
 いきなり振られた伊吹が戸惑いの表情を見せるが、秋間の必死の表情、そして部屋の中にロベルタがいるという事実に気づき、あわてて同意する。
 「そ、そうですよね、私たちがいってもメイドさんたちの邪魔になるだけでしょうし…」
 「そうかな?」
 事情を知らない倉瀬が異を唱える。「私が見たところ三人だけで掃除するにはあの部屋はかなりひどすぎる。この際人手は少しでも多いほうがいいのではないか?」
 「そうですよねぇ…」
 (だー、もう余計なこと言っちゃってこのネコミミ探偵娘ちゃんはぁ!!)
 さらにへこむ村上を尻目に、秋間は思わず心の中で悪態をついた。彼にとっては極めて珍しいことである。
 「それじゃあやっぱり手伝いますね…」
 「だあー、ちょ、待って……」
 秋間がゆかりを止めようとしたその時、不意に研究室の扉が開いてロベルタが顔を出した。
 「秋間殿、申し訳ありませんが食器用洗剤の替えを持ってきてはいただけませんか。今ちょっと私は手が離せなくて…」
 「あ…やば」
 ロベルタが自らの視界に宮川とゆかりを捕らえた瞬間、彼女の表情が豹変した。
 「ゆかり…よくも若様をたぶらかしおって…許さない!!」
 水仕事用のゴム手袋を脱ぎ捨てたロベルタが、愛用の日本刀の鞘を払う。「斬る!」
 「まちなさい!」
 今にも飛び掛らんとするロベルタを、秋間が背後から羽交い絞めにする。
 「な…離せ!」
 「そうもいかないわ」
 ロベルタは秋間の束縛から逃れようと必死にもがくが、秋間の腕力は思いのほか強く、ロベルタは前に進むことはおろか、腕を動かすことすら出来ない。ロベルタは憎しみに満ちた目線をゆかりに据えたまま吼えた。
 「秋間殿、邪魔をするな!!」
 「バカなことを考えるのはやめなさい」
 彼女を落ち着かせるように秋間がロベルタの耳元でささやく。「今ここでアンタがゆかりちゃんを斬っても、状況は変らないわ、いえ、むしろ悪化してしまうでしょうね」
 「だからどうした…」
 「少し頭を冷やしなさい。今のアンタは逆上で周囲が見えなくなっているのよ。ほら―」と、秋間は目線で宮川の方を指し示す。「アンタの若様も驚いているわ」
 言われて、ロベルタは宮川の方に視線を移す。
 「……ロベルタ……なんで……」
 ロベルタの視線に気づいた宮川が、思わず一歩後ずさる。驚愕と、そして恐怖に彩られた真っ青な表情。宮川の顔に浮かぶそれは、かつて彼女が戦場で殺した敵兵が最後に浮かべた表情とまったく同じものであった。
 「……」
 ロベルタの身体から、ふっと力が抜けた。
 「申し訳ありません、秋間殿…」
 「わかればいいのよ」しかし、秋間はロベルタの身体を離そうとしなかった。そのままの体勢でロベルタにささやき続ける。「いい? 今アンタがやらなければならないのはただ一つ。アンタの想いを宮川ちゃんにちゃんと伝えて、ゆかりちゃんと同じスタートラインに立つことよ」
 「そんなことが出来るのなら、苦労はしません」
 ロベルタはうなだれる。
 「私めはただのメイドなのですから…そのようなことは思っても口に出してはならないのです」
 「フッ…」
 それを聞いた秋間は、鼻先で笑った。「アンタの戦友は、戦う前から逃げ出すことを伝えたのかしら? 結果のみを追い求めるのではなく、信念を貫き通すことを伝えなかったのかしら?」
 むろん秋間の言葉には幾分演技が混じってはいたのだが、効果はてきめんの様だった。耳元でそう囁かれたロベルタは、一度身体をびくりと震わせると、ゆっくりと背筋を伸ばし、秋間の腕をほどいた。そして様子を見守る秋間のほうを振り返らずに宮川の前にゆっくりと歩み寄る。
 (そうそう、告白しちゃいなさい)
 しかし、次にロベルタが口にしたのは、秋間が期待したものとはまったく違うものだった。
 「若様、ご主人様が大変心配しておいでです。私めとともに家に戻ってはいただけませんか?」
 「ロベルタちゃん!」
 「ロベルタさん…」
 極めて事務的な口調でロベルタにそう言われた宮川は、態度の豹変に戸惑いながらも答える。
 「ごめん、ロベルタさん。僕はまだ家に戻るわけにはいかないんだ」
 「……」
 「もし、この件の片がついて、そのときまだ僕に命があったら、父さんと母さんにゆかりを紹介するために家に戻るよ。約束する。でも、今はまだだめなんだ……まだ、やることが残っている」
 「そうですか……」ロベルタの口調は、さほど落胆している様には感じられなかった。「かしこまりました。ならばこの私めも、若様のお手伝いをさせていただきます。よろしいですね」
 「……ああ。お願いする」
 宮川がうなずく。秋間があわてて、ロベルタの肩に手をやった。
 「ちょっとロベルタちゃん、アンタ、アタシの話聞いてたの!?」
 「……」
 ロベルタは秋間の顔を振り向くと、軽く首を横に振り、肩にかけられた彼の手を振り払った。そして、なにも口に出さないまま、箒を持って研究室―未だ掃除が続いている―の中に戻っていった。ロベルタが一瞬だけ見せた表情に、哀しみと、そしてかすかな失望の色を感じ取った秋間は、声をかけることも出来ずにそれを見送るほかなかった。

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